大内末子のアレに関わるお話

さて今回の話は戦国の世では珍しくも無く、幼い子供が命を落とす話ではありますが・・・それ以上に何だか身体の一部が縮みあがりそうなそうでもないようなお話ですのでご注意下され。

天文20年・1551年に、陶晴賢が謀反を起こして大内義隆が自刃しました。以前にも書いた大内家の滅亡である戦である、大寧寺の乱です。さてこの時、義隆の嫡男の義尊も捕らえられて殺されましたが、末子であった歓寿丸は幼いので女装して山中にかくまわれていた為に無事でした。そう言えば黒田官兵衛の息子・松寿丸も女装させられて竹中半兵衛の元に愛人として匿われていた、なんて話もありますが、まぁ逸話でしょう。結構体格がよさそうな松寿丸が女の子の格好させられていたというのは眉唾もののような気もします。

話を戻して歓寿丸は、翌年の春に不幸にも陶兵に見つかってしまいました。この時陶兵は歓寿丸を殺すと、男児の証拠にとアレを切り取って持ち去ったそうです。・・・・・。

・・・・その後、歓寿丸を憐れんだ里の者達は「麻羅観音」という杜を建てて歓寿丸の霊を祭り、今の時代にも残っているその杜は今では子宝祈願スポット・○○○スポットととして人々に愛されていると言います。

その扱いは本当に憐れんでいるのか、とは言わない約束です。

雑談・大河ドラマの事など

今回はちょっと趣向を変えまして?大河ドラマ「軍師官兵衛」の事など少し。少し前に上月城の事がありまして、最近では陣内孝則さんが演じています宇喜多直家が色々と動き始めていますね。そして荒木村重の謀反までが前回の下りですが・・・。

いやー、久々にとても面白い大河ドラマだと私は思っております!特に人間の心理描写がとてもよく、皆さん素晴らしい演技を見せて、いや魅せてくれていると思います。荒木村重の謀反の所はこのサイト内でも拙いながら触れていますが、そこに至るまでの描写がとても良いですね。あの演技は胸に来るものがあります。尼子の上月城の下りも見ていてとても切ないものがありました。

そして異彩を放つまでの(良い意味で)凄まじいインパクトをかましてくれた宇喜多直家。いやー、この人の演技はぶれませんね。私の中ではとてもいい宇喜多直家なのですが、皆さんの印象はどうなのでしょうか?各々の戦国武将のイメージは違うでしょうから、色んな意見があってしかるべきなのかもしれませんね。

さてサイトでは秀吉の九州出兵についての話になる予定でしたが、ここで世の情勢に乗って(?)少し尼子家と山中鹿之助、そして宇喜多直家について少しずつ触れていきたいと思います。次回からは彼らの面白い逸話、話についてご紹介していきますね!では。

四国の勇と、四国のその後

さて結局秀吉に膝を屈する形になってしまった長宗我部元親ですが、彼はなんとか土佐の領地だけは安堵される事になりました。その後、阿波は重臣蜂須賀正勝の子である蜂須賀家政に、讃岐の国は仙石秀久らに、伊予の国は小早川隆景に与えられる事になりました。この時、長宗我部元親は何を思った事でしょう。

折角長年苦労して四国統一を頑張ってきたというのに、途中で織田信長の横入りを受け肝を冷やす結果になり(ちゃんと挨拶したのに何でかやっぱり攻め込まれそうになった解せない)、さてそれが本能寺で宙に浮いた形になってホッとしていたら今度はその部下である秀吉がもっと壮大な部下を引き連れ攻め込んできた・・・文字にすると分かりやすい長宗我部元親の苦労歴。

そんな長宗我部元親ですが、破れてしまった物は仕方ない、不確かな未来を生き抜くぞ!とばかりに秀吉にクジラを献上しています。こいつぁなかなかダイナミックな貢物ですね!

さて四国を手に入れた秀吉、次に向かうは戦乱うごめく九州の地です。九州も九州でこの時荒れ放題の凄い事になってましたが、そこに乱入するははげねずみだのサルだの言われていたとある家の一武将。さて秀吉の九州征伐は上手くいくのでしょうか?

各地での乱戦

さて、四国の各地で激しい戦いが繰り広げられました。四国統一の夢を抱いてここまでやってきた長宗我部元親もまた家臣を率いて戦いますが、やはり強大な軍相手に戦うのは厳しいものがあります。

まず黒田官兵衛が讃岐の喜岡城、藤尾城を落として、長宗我部親武の守る植田城へ向かいます。がここで官兵衛は攻撃には移らず、羽柴秀長、秀次らが攻撃を開始していた阿波の木津城へと向かって本体と合流しました。木津城で防戦していた東条関兵衛は敵の新手の出現に驚き、城から退却しました。因みに植田城は長宗我部軍が用意していた罠が仕掛けられた城だったようで、官兵衛はこれを見抜いて本体と合流したと言われています。流石は官兵衛、希代の天才軍師ですね。

その後、秀長は長宗我部軍・谷忠澄の守る一宮城を落とし、長宗我部新吉の岩倉城を井楼からの砲撃により見事陥落させます。その頃伊予では毛利三万と伊予金子勢の二千が戦っていましたが、この兵力の違いは覆せませんでした。金子元宅は戦死し、元宅の弟、金子元春の守る金子城もたちまち小早川隆景によって落とされました。

次々と城を落とされていき、長宗我部元親はこの後に秀吉に降伏を申し出る事になります。四国の勇は結局信長の評した通り、鳥無き島の蝙蝠で終わるという悔しい終わり方を見せたのでした。

 

四国へ渡る軍団

さて前回から続いて四国征伐ですが、この四国征伐には秀吉は同行していません。この時秀吉は病気であったためとも、越中にいた佐々成政の動きが不穏だったためとも言われています。

この時の総大将は秀吉の弟である羽柴秀長、そして共に甥の羽柴秀次が淡路国経由で阿波へ侵入。この時軍師として黒田官兵衛も久々に登場しています。

秀長の率いる隊は三万、秀次も三万と大軍勢を率いています。この時備前で若くして跡目を継いだ宇喜多秀家もまた二万三千という軍勢を率いて讃岐へ渡っています。

そして小早川隆景もまた毛利勢三万を率いて伊予の国へ渡っています。羽柴軍の総勢はなんと十一万以上の大軍を率いている事になります。これに対し、長宗我部元親は領内の各拠点を固め、自身は阿波にある白地城に入って本拠地より出来るだけ遠い場所で秀吉の軍を防ぎきろうとしたのですが、その数は四万。数だけ見ると凄いのですが、奈何せん秀吉の軍の十一万が多すぎる。やはりこの膨大な数の差により、劣勢は否めない状況下での戦が始まりました。何でも一説によると馬の大きさからして違い、果てには兵士の具足まで色々格差がついていたようです。

さて、元親はこの軍勢差を如何にしてひっくり返すのでしょうか?

 

 

対決!四国の覇者

さて小牧長久手で織田信雄、徳川家康に結果的に大勝利を収めてしまった羽柴秀吉はちゃくちゃくと天下人への道のりを歩み始めます。まず向かうは西日本から南日本、中国地方を占拠していた毛利は既に組していますので、次に狙うのは四国の覇者となっていた長宗我部元親です。

長宗我部元親と言えば土佐出身の有名な戦国大名。ほぼ四国全土をその領地としていた武将です。当初は信長とも明智光秀を通してそこそこ友好的なお付き合いをしていました(そのため息子の名前が信親なのです)。これは奥さんが明智家の有力武将、斉藤利光の妹だったことによる微妙な縁戚関係を利用したものと思われています。因みに利光の娘は有名な春日の局。そしてこの春日の局の母親はかの有名な稲葉一鉄の娘です。戦国縁故事情。

さて、天下統一を目指す秀吉は重要な航路である瀬戸内の海を完全掌握したい、しかしそれには四国の勇である長宗我部元親を屈させる必要がある。そのため秀吉は四国征伐を開始します。

まず秀吉は元親に阿波、讃岐、伊予を返上するように迫りますが元親は当然ながらこれを拒否。こうして秀吉は四国征伐を遂行するに至った訳ですね。素直に返上されたらどうしていたんだろうか、なんてのは言いっこなしですよ!

名人久太郎・配下は適材適所である

さて、前回ご紹介した名人久太郎こと堀秀政。彼は家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで秀吉の甥、羽柴秀次のお目付役として参陣。背後を突かれて徳川軍に攻撃を受けるも、見事に反撃して陣を立て直しました。この戦上手な事から名人久太郎と呼ばれた秀政ですが、その逸話の数々はどれも秀逸なもので、黒田官兵衛同じく配下武将を使うことに長けており、慕われていたようです。

その秀政の逸話を今回から、少し寄り道して紹介していきます。

今回はそのひとつであるお話。秀政の家臣には極めて泣き面の男がいた。いつも常日頃から目から涙を流し眉をひそめている男で、家中の者達からも嫌われていました。いつも特に理由もなく涙を流していれば、まぁ仕方のない事かもしれません。そのため秀政に仕えていた者達がある日溜まりかねたのか秀政に物申しました。

「あの男の顔色は大変不吉で、離れて見ていても鬱陶しい人間です。あのような男には暇を出すべきです!」

だが秀政、それにこう答える。

「その事であるが、他の家の法事や弔いの使者に使わすにはあの男ほど適した人間はいない。大名の家は色々な人間を雇っておくべきものなのだ」

そう返され、家臣達は以後この事に文句は言わなくなったと言います。実際にこの男を葬式の使者に出して大成功したとも言われます。

名人久太郎、配下は適材適所を語る、というお話です。

 

襲撃を受けた羽柴秀次勢の動き

さて、徳川家康により背後からだけでなく側面からまで物凄い襲撃を受けて逃走するにいたった羽柴秀次勢のお話を少しおば。因みに官兵衛の話がまるで出て来ませんが、彼は小牧・長久手の戦いではお留守番だったようですので暫く出番はありません。そんな身も蓋もない

えーともあれ秀次勢がその動きに気付いたのは朝方だとも言われています。岡崎城へと奇襲をかける為に進む秀次勢、後ろから7~800人ほどの舞台が現れた事に気づきました。

「あれは何だろう」
「何でしょうね」

ちょっとゆったりしてるにも程がある気がするが、とにかく秀次なんだろうと首を傾げていた。かどうかは知らないが、そんな事を言っている内に新たな部隊が出て此方に近付いてきている。家臣の一人が言った。

「あれらは何らかの意図を持っている部隊ですぞ。殿、お覚悟を」

そんな事を言っているとまた新たにいくつもの部隊が飛び出してきて、最初に出てきた舞台に合流してくると大きな舞台となって秀次勢に押し寄せて攻撃を始めてきた。その部隊にある旗印を見て初めてその部隊が徳川・織田部隊だと気がついた秀次隊はパニックになり、壊滅してしまいましたとさ。尚、同行していた長谷川秀一はこの部隊を見て前方に進んでいる堀秀政隊に連絡を取っている事をここに記載。

うーん秀次様、ちょっと呑気だったね。というお話です。まあ戦には色々あるよね。

 

官兵衛とお茶

さて、官兵衛の逸話を紹介し続けるのも今回で一区切りつけましょうか。秀吉や大名が茶の湯に興じていた事は有名ですが、果たして我らが黒田官兵衛は茶の湯に関してどんな考えでいたのか。今回はそれを窺わせる逸話です。

 

秀吉は兼ねての事より茶の湯に入れ込んでいたが、官兵衛は「狭い一室に刀を持たずに数人で入るなんて無用心すぎる」 としてその事に不満を抱いていました。そんな ある日、官兵衛が秀吉から茶の湯の誘いを受けます。しぶしぶ出かけた官兵衛ですがそこでは茶の湯は出てくる事無く、次の合戦についての戦略会議だけが二人の間で行われました。

この密談の後、秀吉は「これが茶の湯の一徳だ。 お前と俺が密談をしていたら他人は疑いを持つだろう。だが茶の湯と言えばいらぬ疑いを持たせずにいられるのではないか?」と言ったそうな。 この言葉に官兵衛は感服し、以後茶の湯をたしなむようになったといいます。

官兵衛一本取られたお話。ですが同時に秀吉の抜け目ない性格もうかがわせる逸話ですね。因みに官兵衛の友人である小早川隆景は茶の湯の席が嫌いだったようですね。確かに茶の湯には大金がかかりますし、茶の湯の席にも一長一短があるという事でしょうか。

さて、次回からは再び歴史を追い始めましょう。

 

黒田官兵衛と部下の扱い方

 

さて、前回は官兵衛の若者について語るお話でしたが、今回はそんな官兵衛がどのように部下を使っていたかが分かる逸話を一つ紹介しましょう。

ある時、黒田官兵衛は手塚という男に下屋敷普請の奉行に命じました。この手塚という男、心根は正直で真面目なの人間でしたが、ある欠点で中々出世に恵まれなかい人物でした。それを知った官兵衛、不憫に思って大事の奉行に起用したのです。

そんなある日、広間で官兵衛が近臣と碁を打っていると何か用があったのか手塚がやってきました。が、手塚は顔を赤らめてあたふたしているばかりで何も話さない。実はこの手塚の欠点とは、生まれつきどもり癖があり極度のあがり症だった事なのです。手塚を見て周囲の者が首をかしげていると官兵衛振り向きもしないまま

「材木が足りないなら金に糸目はつけないので、必要なだけ買ってよいぞ」

そう答えると、手塚は安心した様子で一礼をし、広間を去っていきました。

周囲が尋ねると、手塚は普請用の材木が足りないので材木屋で買おうか山から伐らせるかを尋ねに来たのだと官兵衛は答える。それに対しての答えは「いくらでも買え」との事だと言うが、周囲が聞きたいのはそんな事ではありません。官兵衛がなぜ言いたいことが分かったのかという事。果てには「なぜあんな不便な者をお使いになるのか?」と近臣が問いかけると

「根気良く付き合っていたら、言いたい事もやりたい事も大体解るようになった。確かに聞き取りにくいかもしれないが、仕事は長年真面目に務めてくれている。だったら言いたい事を理解するよう努めるのは、上に居る自分の領分である。」

そう答えた官兵衛に、周囲はひたすら尊敬の目を向けたそうな。

いやぁ、正に理想の上司と言わざるを得ない逸話ですね。しかしこれだけ目端が利く人間だと、逆にその上司はやりづらいのかも?そんな官兵衛の、部下との接し方でした。