黒田官兵衛・若者を語る

 

さて、今回は黒田官兵衛が隠居して大分経ち、平和な太平の世である時語ったと言われる、若者についてのお話。

 

「誰とは言っている訳ではない。だけれど今の世の若い大名達が心を許して用心をしないのは、腰や肩を揉ませて調子のいいことを言う小姓が一人二人いるくらいのもので、その他は児小姓から家老に到るまで常にずっと傍に寄ってくれば警戒の目で見続けて、脇差の柄に手をかけんばかりの勢いで接しながら、相手が何かしてきても自分がぬかることはないぞ、と言いかねぬばかりの風情のせいなんだよ。どうして召し使っている者たちをそんなに恨みでもあるかのように接するのだろうかね?大名としては下々末々の者、百姓以下まで、長久あれかしと願うように接したいもんだ。今の世の若い連中の立ち振る舞いを見るとまるで、兵法修行して世を渡っている連中と見間違えそうだよ。俺はそういうのを見るたびに可笑しくって、馬鹿な事やっているなあと思うんんだ」

 

そんな黒田官兵衛による、近代の若者について、です。

平和な世の方が常に危険と隣り合わせのような感覚で生きていた、という事なのでしょうか。そう考えると何処か今の世につながる物悲しさを感じぜらるをえませんね。

黒田官兵衛・部下について語る

さて、前回も黒田官兵衛こと我らがクロカンが理想の上司のようだなぁという逸話を紹介しましたが、今回も官兵衛のお話。それも官兵衛が語る部下についてのお話です。

黒田官兵衛が、一見何でもない様な事に聞こえるが実は心残る教訓を話していたなかでこんな事を申された。(原文より抜粋・とてもややこしい言い回し)

「たわけであっても主人の役に立つたわけという者がのがあるもんだ。こういう者は、例えたわけだと知っていてもついつい可愛がってしまうもんなんだ。その一方で優れていて利口な者であるのに、主人の役には立たない利口者なんてのもあるんだ。これは利口者と解っていても、扱いが本当にやりにくいものなんだよ。」

つかえるたわけにつかえぬ利口、と言うお話ですが、これは現代にもどこか通じる者があるのかもしれません。人の好き好きを話しているようでありながらも、どこか深さを窺わせる話ですね。上司や部下という仕事上での人間関係というものは、今も昔もまた難しいものだったのでしょう。

官兵衛自身もその英知さを上司で主君に当たる秀吉に恐れられて閑職に回された、という話があるので、官兵衛自身もそんな秀吉の心を見抜いていたのかもしれませんね。

そんな官兵衛さん、部下について語る、というお話です。

 

官兵衛曰く「博打は…」

さて今回から数回官兵衛の逸話を紹介してから、続きの話に参りましょうか。

その昔、黒田家では賭博はご法度でした。しかし人間、禁じられている方がやりたくなるのか、禁じられていてもやる奴はやるのか、とにかくやる人間が出ました。黒田家の家臣・桂菊右衛門という名の男です。

桂菊右衛門ははその夜博打で大勝ちして羽織に戦利品を包んでほくほく顔で朝帰りの家路をについていました。ところがある事に気がつく。この道は大殿が仕事に出る時に通る道ではなかったか。鉢合わせしては大変だ…そう思っているとなんとビンゴ!角を曲がった所でばったり大殿・黒田官兵衛と会ってしまった!ここで本人大慌て、必死に叫んだのは次の言葉。

「某は博打の帰りではございません!」

ヤッチャッタネ!人間焦ると何を言うかわからないとはこの事である。

しかし官兵衛はその場では何も聞かなかったように通り過ぎる。だが考えて欲しい。こんな事叫んじゃばれているに決まっている。自分はもう切腹決定だと塞ぎ込んだ。諸事情を聞いた同僚達も「まぁそりゃお前切腹だよね」沈痛な表情で見舞いに訪れました。もちろん命も知れぬ身では金どころではなく、戦利品の包みはその辺に放置され中身も確かめないまま。

しかしそれを聞いて当の官兵衛、菊右衛門を大笑いしながら訪ねてこう言った。

「まあ勝ったところで博打は打ち止めにしておくように。人間いい事の後には悪い事があるもんだ。今朝みたいなことを言い出すのも決まりをを恐れての事。そんなに命が大事と思うなら今度からどんな決まり事も破らぬようにする事だ。今回は許すがその内身代を擦り切らせたなんて話を聞いたら今度こそ罰を与えるぞ。とにかく、博打に限らず無駄遣いしたりして擦り切らないように気をつけろよ」

官兵衛はこのように、落ち度があっても厳罰に処す事はなく、相手に非を悟らせ機会を与えたので非常に仕えやすかったそうです。正に理想の上司、という感じですね!うっかりがなければ

 

母里太兵衛と栗山利安

栗山利安の話が出てきているので、母里太兵衛こと母里友信の事も少し語っておきましょう。

母里太兵衛はは黒田家の武士です。無類の大酒飲みで有名で、福島正則にすすめられた大盃の酒を見事に飲み干し名槍・日本号を奪い取った賜った逸話は『黒田節』・『筑前今様』として今も尚語り継がれています。この事から太兵衛は「飲み取り太兵衛」とも呼ばれています。黒田官兵衛は栗山利安と同じく太兵衛を重用し、生涯で76の首級をあげた家中随一の猛将として黒田家の筑前入国後に18000石を得ました。

ですが、太兵衛は無分別で向こう見ずな、わがままな性格だったようです。

その為に若い頃、官兵衛は栗山利安を「兄と思い、兄弟一体となって奉公せよ」と命じました。太兵衛は主君の息子である長政と度々衝突していましたが、その度に利安によって仲裁されていたようです。太兵衛にとって、利安は世話になった大切な兄貴分だったのでしょう。

太兵衛は晩年、利安の見舞いを受けた際に。「これまではおこがましいと思い口にはせなんだが、御身の恩により人となることができた」と言って手を取り共々に号泣したと伝えられています。この逸話にはいつ見てもホロリとさせられますね。荒くれだった自分を正しく導いてくれた人物が、利安だったのでしょう。

栗山利安の人柄を感じると同時に、的確な人材を選びぬいて指導させた官兵衛の先見の目も窺わさせる逸話です。

栗山利安と有岡城2

栗山利安の気がついた事とは、牢の裏手にある溜池。この溜池の周囲は城内も兵を割いていなかったのか、番兵が置かれていなかったのです。利安は夜陰に紛れて池を泳ぎ渡って、牢の裏手までたどり着いた。しかしそこから、進入する事はできない。栗山は牢の中に向かって必死で主の名前を呼んだ。

「…利安か?」

官兵衛は、生きていた。
それから利安は毎晩のように池を渡り、官兵衛が捕らえられてからの国元の様子、 世間の動向などを語り続けました。 官兵衛はこれを聞いて心が慰められたと言います。 やがて両替商により、牢の番人を買収に成功。そして彼らは次の織田軍による攻勢を待ち続けました。

その日、織田軍の接近により予測通り牢の周辺の兵は一人も居なくなっていた。急いで牢に向かい、利安は番人により放置された鉞で牢の鎖を打ち壊し、牢の中に飛び込んだ。主君との感動の再会です。

だが、官兵衛の体は幽閉により痛めつけられており、立つことも出来なくなっていました。利安はこれを無理に立たせ、両替商は牢の中から捕らえられてまだ日の浅い頑強な囚人を選び出しこれを雇い入れて官兵衛を背負わせた。両替商もまた、『これぞ我が家の曉跡なり』と力を尽くして働いたと言われています。

この三人の手により官兵衛はついに有岡城を脱出。 知り合いの百姓の家にかくまわれると、利安は両替商とその百姓に官兵衛の身を堅く 頼んで、有岡城を包囲している織田軍の官兵衛とかねてから昵懇であった部隊の所に 行ってこの事を知らせました。報告を受けた信長はその忠節をことのほか喜んで、食料、衣類などに丁重にするよう直々に沙汰をして、人を数多さし寄越し播州へと送り届けた、 とのことです。

有岡城からの官兵衛の脱出には、栗山利安の叡智、勇気、中心、人脈と様々なものあっての事だったのですね。いつの世も、出来た部下を持つという事は幸運ですね。勿論、官兵衛という理想の上司あってこその働きだったのでしょうが。

黒田官兵衛の救出劇の裏に栗山利安あり、というお話です。

栗山利安と有岡城1

さて、今回は少し名前が出てきている黒田家筆頭家老、栗山利安のお話をしましょう。

栗山利安は15の時に黒田官兵衛に仕官して以来、生涯挙げた首級は57にものぼる武将でありながら何かと問題が起こればすぐに飛んできて解決する黒田家きってのスーパー世話人で黒田武士が殿の次に慕っていたであろう人物です。(たぶんきっとそう)

彼の功績をいちいち箇条書きにしていると面白くないので、官兵衛が荒木村重により有岡城に捕らえられた時のお話。

官兵衛を捕らえた村重は単身有岡城より脱出した事は以前にも書きましたが、これに城内には厭戦気分が広がり、織田方に内通するものまで現れ始めました。その有様は酷いものでそ手引きにより城下の町屋にまで攻め込まれるほど。そのため有岡城では多くの者が防衛に追われ、官兵衛が捕らえられている牢の番人の多くもそちらに赴き、監視は極端に薄くなったのです。少し考えるとこの時官兵衛は救出されているんじゃないか?と思われますが、捕らえられて1年にもなる官兵衛が生きているとは思わず、誰も官兵衛を探そうとしなかったのです。
彼を探しもしなかった。官兵衛は、敵から処か味方からもその存在を放置されていました。酷過ぎ

だが一人いました。黒田家家臣・栗山備後利安です。

彼は官兵衛に取り立ててもらった恩を忘れず、この織田軍の攻勢の間に混乱の中にある
有岡城に密かに忍び入り官兵衛を探し始めました。そして官兵衛のいると思われる牢の傍まで近寄ったものの、織田の攻勢が治まると牢の監視は再び厳しくなり近付く事が困難になって来ました。この時利安は有岡に居た知り合いの両替商を頼り、その家に潜んでいたそうです。

昼は身を潜め、夜になるとこの両替商と共に牢の傍まで忍び混むも、り監視が多くとても近寄る事ができない。だが利安は、ある日ある事に気がついた。

 

「武士に逃げるという事はない」

今回は賤ヶ岳の戦いでも少し語った、官兵衛のピンチの頃に起こったお話をしましょう。

秀吉軍の出城に破竹の勢いで襲いかかる佐久間軍。その勢いに最前線の砦を守っていた官兵衛も覚悟を決め、重臣の栗山利安を呼びます。そして15歳になる息子・長政を連れて逃げるように命じました。利安もまた最期までお伴したいと願い出て官兵衛の命を聞こうとしなかったが、官兵衛の懸命の説得にて長政を抱えて泣く泣く砦を脱出しました。だが連れ出された長政は砦から一里ばかり離れたところで何かおかしさに気付いたのか、 利安に尋ねました。

「利安、我らはこんなに急いでどこに向かう?」

長政は嘗て竹中半兵衛に連れられ、信長から落ち伸びた過去があります。この時も事態が尋常ではない事を察したのかもしれません。若君の言葉に、利安も本当の事を話してしまいます。驚いた長政は今すぐ砦に戻ると言い出しましたが、これを利安は必至で説得しようとしました。だが長政はきっぱりと言い切りました。

「子が父を見捨てて逃げ、どの面下げて生き延びるのだ!それに 『武士に逃げるという事はない』と教えてくれたのは父上だ!!」

長政は馬を蹴りたて、砦に駆け戻ります。その後ろを感涙しながら利安も後に続きました。

「あぁ、あの方こそ間違いなく、官兵衛様のご子息であらせられる」

その後、 黒田親子は秀吉の大返しまで必死に砦を守り抜き、後の大大名に家を繋げていく事になります。しかしこの家族でも争う戦国の世の中ですが、黒田親子は本当に仲がいいですね。

謎の撤退による敗戦

賤ヶ岳の地で起こった激しい乱戦。その最中に、思いもよらない事態が起こります。

今だ激しい戦いを続ける佐久間、柴田両軍をおいて前田利家・都長親子が独断で撤退を開始したのです。この撤退に関しては理由は明記されてはいません。前から仲が良かった秀吉と土壇場で争いたくなくなったという理由もあれば、この時佐久間勢が崩れていく事を見て柴田軍を見限ったなど、色々な憶測が飛び交っています。

ですが前田軍が引いた事により、利家と対峙していた軍勢が佐久間・柴田勢への攻撃に加わりました。更に利家の撤退を見て、柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却。これにより佐久間柴田の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到。多勢に無勢の状況を支えきれる訳もなく、勝家の軍勢は総崩れ。越前・北ノ庄城に向けて退却をする他無くなりました。

この件に関しては勢い付いた佐久間盛政の深入りが問題、とありましたが今ではこの盛政の勢いに乗れなかった柴田軍と、前田軍の敵前撤退がこの戦の命運を分けたとも言われています。確かにこの勢いを借りて秀吉の帰還前に全軍で羽柴軍を叩いていたら、どうなっていたのでしょうか。もしかしたらその時、織田家の天下が再び着ていたのかもしれませんね。

さて、いよいよ勝家も追いこまれ、賤ヶ岳の戦いも終わりが近づきます。

秀吉二度目の大返し

佐久間盛政の猛攻に、賤ヶ岳砦の守将・桑名重晴も撤退を開始。このまま柴田軍が秀吉の出城に攻めよせるのも時間の問題。最前線にいた官兵衛も覚悟を決めます。その頃、時を同じく船にて琵琶湖を渡っていた丹羽長秀も進軍を部下の反対にあいます。だが長秀は「機は今を置いて他に無し」と判断、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変しました。

長秀率いる2000の軍勢は撤退を開始していた重晴の軍勢とちょうど鉢合わせするし、合流。そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功します。いやはや、偶然なのか米五郎佐こと丹羽長秀の読みが当たったのか…恐ろしや。

そして秀吉もまた大岩山砦の落城を知り、軍を木ノ本に向けます。この時、14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動。正に秀吉人生で二度目の大返しというところでしょうか。この時、配下である石田三成によって街道に松明が点けられ、食事の補給個所までも用意させられていたのでこの大返しが成功したという逸話も残っています。

盛政は秀吉の帰還前に砦を落としたかったのでしょう、ですがこの秀吉の帰還に驚いた盛政は撤退を開始。しかし翌日に帰ってきた秀吉らの大軍に強襲されます。盛政は奮闘、更に柴田勝政の救援、これにより秀吉は柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援と、両軍は激戦。凄まじい戦いが繰り広げられますが、ここで予想外の事態が引き起こされます。

さて、賤ヶ岳の地に起こった予想外の事態とは何なのでしょうか。

 

 

ちょいと拝借

今回は久しぶりに官兵衛のお話をしましょうか。これは秀吉の中国大返しの時の逸話です。

 

中国大返しの際、官兵衛は小早川隆景らに「旗を20ほどお貸し下され」と申し出ました。この申し出を毛利、小早川方は不審に思いましたが、何度も頼みこまれた事と隆景自身が「まぁいいんじゃね」とOKを出した事で貸し出す事になりました。

その後、秀吉は宇喜多秀家の家老達に備前の片上まで見送りして貰いましたが、そこでも官兵衛は彼らから旗10本ばかりを借り受けました。

そして兵庫あたりにまで到達すると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗達を秀吉の陣先に立てました。これは敵方から物見が出た時、そして合戦の時に毛利宇喜多の両家が秀吉に付いて先手として上がってきたように見せかけて、敵の士気を削ぎ味方の士気を増す、という策略だったのです。

これを見た秀吉は大喜び!

「若き者達よああいう事を見て後学にせよ!合戦というものは謀で勝つものである!敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来る事だ。官兵衛の今の謀は凡人の及ぶところではない。あのような手立てを行う事こそ誠の大切と言うべきものぞ!」

と激しく褒め称えました。

こうして官兵衛の策略と秀吉の言葉に士気を上げながら、明智光秀の軍勢を破る事になったのです。子供騙しなようでいて、実際にこんな所でこんな事を思いつくのは、官兵衛は流石と言う他はありません。勿論、それを察して皆を鼓舞した秀吉もまた、策略家と言わざるを得ませんけどね。