高橋紹運の覚悟

島津方も岩屋城を攻め始めますが、紹運の守る岩屋城は士気も高く、兵の抵抗も激しいものでした。何とか被害を最小に抑えるべく、再び島津方は降伏交渉を行います。しかし今回のは降伏勧告とは違い、高橋方に最大限に譲歩した内容でした。降伏ではなく、和議を結ぼうという考えです。そこには名将・高橋紹運と、その紹運に命を捧げんと奮戦する将兵達の命をも救おうという考えもあったのかもしれません。

ですが紹運はやはりこれも丁重にもてなした上できっぱりと断り、将兵一同城を枕にして討ち死にする構えであると伝えます。そして島津忠長はこれに対し覚悟を決め、岩屋城へ総攻撃をかける事を決めました。

紹運はこの際、高櫓から指揮を取り、数珠を片手に討ち死にする死者を弔いながら奮戦しました。そしてその後は自らも打って出て、落城寸前に自刃して果てました。その介錯は配下の吉野左京介が行い、自身も返す刀で後を追ったと言われています。

岩屋城に籠った763名は全て討死、または自刃。これに対して島津家の被害は5000以上にも及ぶ大打撃でした。城兵達は皆、最後まで忠義を尽くして戦い続けたのでしょう。

高橋紹運辞世の句は

「流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
「屍おば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲ゐの空に 名を止むべき」

岩屋にて壮絶な最期を遂げた高橋紹運以下763名は、今もなおその名を語り継がせています。

九州

親子の交わした最後の会話

また、降伏勧告などを行ったのは島津家だけではなく、豊臣家の名軍師・お久しぶりの黒田官兵衛や、息子の立花宗茂からも、岩屋城は地の利が悪いので守りにくいので宝満山城で籠城戦を行ってはどうかいう手紙が届いています。

しかし紹運はそれを承諾せず、その使者を丁重に持て成して返事を持たせ、息子の元へ返しました。

「宗茂の言う所は至極もっともであるだろう。だが地の利は人の和に敵わずとも言う。いくら堅固な城に籠っても、人の心が一つに纏まらねば意味をなさぬ。我が家は今や、滅びの時を迎えているが、これは世の流れ。滅びの時が来たのならば如何なる堅固な城に籠ったとしてもこれからは逃げられはしないだろう。それならば慣れ親しんだ城を枕として、武士の本懐を遂げて死ぬ事こそ本意である。この岩屋の城に籠って戦えば十日ほどは島津を足止めして、敵の三千ほどは討ち取って見せよう。さすれば次に立花山城に攻め入ったとしても更に日を稼ぎ、秀吉公の援軍も到着して宗茂は生きながらえる事が出来よう。我が命が此処に果てようとも宗茂さえ無事であるならば今は無き道雪様に対しても面目が立とうというものである。」

これが、高橋紹運、立花宗茂の最後の会話となりました。

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島津方の降伏勧告

討ち死にを覚悟して岩屋城に籠る紹運に、島津方より降伏勧告が届きます。名将と名高い紹運と戦う事は島津方にとっても惜しい事だったようで、三度にも渡って島津方より降伏勧告が下されたようです。そのひとつにはこうあります。

「長年に渡る高橋殿の忠義と今その死をもって城を守ろうとするお覚悟は敵ながら真にお見事。しかし貴方の主君である大友親子はその忠義に値する方とは思えず、対するに我が主君島津義久様は信義をもちて人に接する方であり、今や九州の覇者たるお働きを成されております。城兵の助命と本領安堵を取り計らいますので降伏して城を明け渡しては如何でしょうか」

これに対して紹運は

「生者必滅、盛者必衰は世の習い。ですが主家が勢いのある時には忠義を尽くし、衰えたる時に命を捨てる事を惜しむとあっては武士の名折れ。その受けた恩を忘れては畜生になり下がるでしょう。逆にお聞きしますが貴方は島津家が御家の滅亡時には命を惜しみ、我が命可愛さに他家に走るのでしょうか?私はそのような事は出来ぬと考えております。」

見事にこう言い切った紹運には、敵味方区別なく称賛の声が上がったそうです。紹運の父もまた大友家に尽くし、一族の殆どがその窮地に奮戦して命を落としています。義理固く、忠節に溢れた一族だったのでしょう。

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岩屋城の戦い

岩屋城に攻め寄せる一軍を率いるのは島津家当主・島津義久の従兄弟・島津忠長。忠長自身も名将でありながら、率いる兵はなんと二万人余り。一説には五万人とも言われていますが、流石にこれは少し多すぎではなかろうかと思ったり・・・。(島津家の日向侵攻に合わせて、各地の豪族達が集合する形になって人数が多くなったそうです)

これに対する高橋紹運の岩屋城の城兵は763人。(南無三と覚えて頂くと覚えやすい)

今だ嘗てないほど人数の差は絶望的です。しかし紹運も何も考えなしにこの城に籠った訳ではありません。

この岩屋城は島津勢が最初に攻撃する拠点であり、ここを迂回されると次に控えるのは息子達の守る立花城と宝満城。立花城は盟友の道雪の城であり、息子の宗茂がいる。宝満城には息子の統増のみならず、紹運の妻や岩屋城から逃げ出した女性達や子供といった非戦闘民族が多く籠っていました。岩屋城を抜かれてしまえばこの二つの城に島津軍は襲いかかり、膨大な被害が出るでしょう。そうすれば大友本家を守る事ができません。

ですがここで島津家に大きな被害を与えておけば、秀吉の援軍が間に合うかもしれません。

紹運は玉砕覚悟で、岩屋に籠った城兵達と島津家と戦う覚悟を決めたのでした。全ては主君大友家の為に、高橋紹運の名を知らしめた戦い・岩屋城の戦いが開始します。

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迫りくる島津軍

さて、秀吉からの大友家との和睦要請を蹴っ飛ばした島津家。このままうかうかはしていられません。何故なら大友家が豊臣家(秀吉)に和睦の仲介を頼んだという事は、この頼みに乗っかった形で九州に進出してくる事でしょう。大友家の援軍要請は、秀吉に九州征伐の大義名分を与えてしまったようなものです。まぁそのままぼんやりしていたら島津家に滅ぼされただろうと予測されますので、大友宗麟の行動は今の大友家にとって最善策だったのですが・・・。

豊臣家が九州に介入してくる前に島津家は急いで北上の準備を始めます。この時島津家としては、何としてでも秀吉が来る前に大友を落として九州の覇権を秀吉の者にしないようにしたかったのかもしれません。

さて、大友家の名将・立花道雪の死をきっかけとして島津家は筑前侵攻を開始します。大友家の本拠地豊後を守る最後の壁がこの筑前にありました。

かの道雪の居城であった立花山城と、それを守る立花宗茂

その弟の高橋統増の守る宝満城

そして両名の父であり、名将の高橋紹運が籠る岩屋城です。

どの城も堅城で強敵がいますが、彼らをそのままにしておいては豊後侵攻の際の大きな障害となるでしょう。この時、義久は従兄弟の島津忠長を総大将に、まずは紹運の守る岩屋城を責め始めます。

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大友宗麟、頑張る

さて頼りの道雪もなくなってしまい、この時の大友家の状態は

大 ピ ン チ !

正にこれに尽きる。下からやって来るのはチート四兄弟の呼び名も高い島津家四兄弟とそれを取り囲む戦闘民族の優秀な家臣の皆さん。そこへやってきたのは後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉。ここで大友宗麟、奮い立ちます!正直もっと早く奮い立て欲しかった

この頃秀吉は最早日の本の中央部分を支配しています。この秀吉に島津家との取り持ちを頼みました。これを受けた秀吉、大友家と和平を結ぶよう島津家に交渉を行います。が。

「秀吉とかどこの猿の骨だし」

「いきなり出て来て何様だっつーの」

「つーかチクってんじゃねーよ大友マジ〆る」

「いくさ!いくさ!いくさぁああああ!!!!」

※あくまでイメージでお送りしています。

島津家は大友家との和平を拒否します。だからと言って単独で島津家とぶつかっては敗北必死。大友宗麟は京に上がって秀吉と謁見。この際に南蛮渡来の貢物などをして秀吉のご機嫌を取り、大友家に味方して島津家と戦ってくれるように頼みこみました。貢物に気を良くしたのか、秀吉はこれを承諾。こうして秀吉の九州討伐が始まります。

ここからの戦は大友家VS島津家だけではなく、豊臣家VS島津家となっていくのでした。

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陣引きの際に

さて家臣一同は道雪の遺体の入った棺を輸送しながら陣を引く事に決めました。ですが敵は島津、背後を見せて退却するのですから追撃を警戒しながら陣を引き払わねばなりません。そして同時に退却時にどのような敵に襲われるとも限りません。立花家臣一同、主の棺を守るべく気合を入れ直し、一層の注意を払いながらの行動が開始されました。

しかし陣払いを開始して退却しているのに、何故か島津側から追撃がありません。ふと振り返り島津陣を見やると、そこには道雪の死を悼んで喪に服す島津勢の姿が。その中には道雪の死に涙を流す者すらいたようです。

また退却をする中でも、『あの道雪公の開陣である』と道中で矢の一本すらいられぬまま、無事主の棺を一行達は領内まで運ぶ事が出来ました。

その葬儀の時には敵対していた城の城主達自ら馬を飛ばして訪れ、遠方の者は弔いの使者を遣わすなどして立花城で誰しも道雪の死を悼んだようです。『道雪の死にいたって、それまで敵対していた人々が和睦の心を通ぜようとしている。これは尋常のことではない』。人々はそう噂しあったと言われています。東には弟の葬式で戦吹っかけた奴もいるというのに

そんな道雪の辞世の句。

「異方に 心ひくなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも」

これからも当家は戦ばかりが続くであろうが大友家の敵に心を揺さぶられるな。決して大恩に仇で返してはならない。

敵味方全ての人に惜しまれた、忠節の徒・雷神立花道雪の最後らしい言葉です。

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忠義と遺言

道雪の遺言である「遺体に具足をつけたままこの地に立ったまま埋める」。これを守るというのならば、道雪の遺体をこの地においていくという事になってしまいます。如何に主の最後の言葉といえど、道雪の遺体を置いて退却するなど出来る筈がありません。家臣達は一同頭を悩ませて話し合い、結論が出ました。

「やはり道雪様をこのような場所においてはいけない、皆で立花の城にお連れしよう」

「だが道雪様の最後の御言葉に背いて、祟りがあれば何とする」

「何、祟りがあって道雪様が枕元に立たれたならばお叱りを受け、その場で腹を切れば良いではないか。道雪様に最後を見届けて頂かれるのであれば、これ以上の幸せはなかろう」

こうして、一同は道雪の遺言には背きながらも、その遺体を主君の城・立花城まで連れ帰る事に決めました。立花道雪という人がどのように家臣に接していて、そして家臣がどのように思っていたか伝わって来るようなエピソードです。

こうして生涯三十七度の戦を戦い抜き、主君大友家を支え続けた立花道雪の遺体はその後、当時の筑前の寺にて埋葬されました。その後、道雪が悪霊となって祟ったという逸話は聞いた事がありませんが、もしかして死んで尚、家臣の皆は道雪にもう一度会いたかったのかもしれませんね。

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立花道雪の死

勢力を増しながら北上を続けてくる島津家。対する大友家は有力な家臣団を失っている事もあって必死の抵抗をするも、島津はじわじわ攻め上がって来ます。長年敵対していた秋月家も島津方につき、大友家は最大のピンチを迎えます。

そんな中、あの名将・立花道雪が陣中で体調を崩します。この時良大社で病気平癒の祈願が行われるも、道雪の体調は戻らず。道雪の盟友であり、息子を養子に出した高橋紹運もこの時看護にかり出たとも言われていますが、それでも道雪の体調は悪化の一途をたどりました。

そして九月の十一日。道雪は陣中で病死しました。享年七十三歳。大友家に忠義を尽くした名将がまた一人、この世を去ったのです。

さてここで陣内では問題が起きました。もちろん道雪が死んで大友家のこれから、島津家にどう対抗していくかも大変ですが、それは道雪の最後の言葉、遺言に理由があったのです。道雪は娘・誾千代や息子・宗茂の体調気づかいの返事に、そして死期を悟って周りの者達にこう言い含めていました。

「我が遺体に甲冑をつけ、敵の方へ向けてこの地に立ったまま埋めよ。もしこれを破らば、お前達の元へ悪霊となって祟ろうぞ。」

死して尚、道雪は大友家を守るように戦おうというのでしょうか。その忠義は立派ですが、周囲の者達はこれに頭を悩ませていました。

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宗像氏と呪いの怨念・終幕

本人以外の行なった所でどんどん窮地に追い込まれていった氏貞ですが、その後の道雪の病死もあり、その際には旧宗像領地を取り戻したりと必死に家を守り続けていました。ですがそれも、秀吉の九州征伐の際に全て無に帰します。

この年、氏貞は病死。奥方と氏貞の間には嫡男が無く、結果として秀吉の九州介入により六百七十年、七十九代も続いた宗像氏は断絶しました。氏貞以外の宗像の血は絶えていたので、致し方の無い事でしょう。

しかしこれでも尚怨霊は現れ、氏貞の未亡人を悩ませる事となりました。この怨霊を何とかなだめようと、未亡人は増福院という寺に六体の地蔵を寄進しました。あの日、惨殺された人数と同じ数のお地蔵様です。今もその地蔵は増福院の本尊として残っていますが、これもあまり効果は無かったようです。奉納した後に行なわれた大法会の後、それに参加した山伏三十名が盗賊に惨殺されたとの事です。

これも宗像氏を恨む怨霊の仕業であると、人々はそう噂しあったのでした。

こうして宗像の一族は滅びました。始まりは少弐家を呪い、その一族を絶やした宗像家。ですがその後は自らの一族をも呪いによって滅びました。

正に人を呪わば穴二つ、皆さんもお気を付け下さいね。