宗像氏と呪いの怨念10

道雪の宗像貞氏討伐命令ですが、これは流石の道雪であっても怒りに任せての行動と言わざるを得ません。重臣である由布雪下・小野和泉らもこれには異を唱えています。

まず氏貞自身はこの計画に加担した訳ではなく、最後まで反対して止めようとしていた事。そしてこの当時の大友家にとって宗像氏貞という人物は、数少ない新大友派でした。下手に攻撃をして大友家から離反されては、と懸念して道雪に進言していますが結局道雪は宗像氏貞討伐を開始。二人はこの時、命令違反をしてでもと戦に出なかったと言われています。

さて、この戦で一番被害を被ったのは道雪の側室となっていた貞氏の妹・お色の方。彼女は兄と道雪の抗争に心を痛め、病死したとも、自害したとも言われています。大友家と宗像家の友好の為に嫁いだというのに、この最期はやるせない気持ちになります。

悲劇の女性・お色の方。彼女の命日は天正十二年三月二十四日。

この日は宗像氏貞、お色の方の母親が、先妻である山田の局とその娘を惨殺した日の翌日であるといいます。これもまた縁なのか、それとももっと別の何かだったのでしょうか。

またこの哀れなお色の方はその後道雪の養子に入った立花宗茂により、手厚く葬られています。

宗像氏と呪いの怨念9

さて、大友家と宗像家の講和は上手くいきました。氏貞はこの同盟にかなり気を使い、心を砕いていたようです。そして時は流れて。立花家の家老、鷹取城城主の森鎮実が領内不作による食糧支援を道雪に求めてきました。道雪はこの頃秋月家との対立が忙しかったのですが、自ら食糧を輸送しました。

所がこの輸送を邪魔する動きを企んだのは若宮郷氏。郷氏は先の同盟の際に殺害された川津らと共に西郷の血を先祖代々統治してきた者達、その土地を立花家に奪われあまつさえ配置替えされたのが不毛の地であった若宮であった事で道雪らに深い遺恨の念を抱いていたと言われています。この襲撃には郷氏らだけでなく、立花氏と激しく対立していた秋月勢も加わります。焦ったのは氏貞自身、家老達を遣わして何とかこの襲撃を止めようとしましたが、よりによって遣わした家老二名までこの襲撃に加わってしまいました。

結論から言うとこの襲撃は大失敗。宗像一派、秋月一派は立花勢に蹴散らされ、道雪達は見事兵糧を餓えで苦しんでいた鷹取城まで届けました。ですがこの襲撃は必要のない余波を生み出してしまいました。道雪はこの時の襲撃に大激怒し、計画を止めようとしていた宗像氏貞討伐の命令を発してしまうのです。

宗像氏と恨みの怨念8

折角比叡山から高僧を呼んだのに祈祷は失敗に終わり、それ以降も度重なる不運に氏貞は何度も山田の局達の慰霊に努めます。「親の因果が子に報い」とは言いますが、氏貞自身は与り知らぬ事なのにこんな事になってしまうとは不運ですね。母親も息子の為に良かれと思ってした事が(結構な悪意と嫉妬も見え隠れしますが・・・)、返って息子を苦しめるとは思っていなかったのでしょう。その後の慰霊も、どれも上手くは行かなかったようです。

これより以後、宗像家は段々と傾き始めていきます。宗像家譜代の重臣達は誰もが病にかかったり、謎の発狂をしたり、はたまた討死してしまったりとその全てが氏貞の代の内に耐え果てました。

同時に勢力を伸ばす大友家に従う事になった氏貞は、豊後三老と呼ばれる臼杵鑑速の娘であり、大友宗麟の養女となった女性を妻に迎え入れて、そして妹のお色の方は立花道雪の側室になりました。この縁組はもちろん同盟の為であり、側室というよりは人質のような状態であったのでしょう。お色の方も家の為に嫁ぎました。また氏貞はこの時家臣の一人を同盟の条件として殺害しています。これは苦渋の判断であったのか、その遺児達を宗像の一族と同じ扱いをして取り立てています。

しかしこの時同盟の婚姻時、兄の氏貞がお色の方の化粧料として立花家に贈った西郷・若宮の領地が悲劇の発端となってしまうのでした。

宗像氏と恨みの怨念7

さて、母と妹の事件の顛末を、そしてその発端の事件を家臣達から聞いた氏貞は、山田の局達の霊を慰める為に墓所を整備して法会を行いました早速慰霊のため墓所を整備し法会を行いました。ですが時を同じくして大友家の豪族達の来襲により、宗像領内の大部分は大友家に占領されてしまいました。その上疫病が流行り、井戸が涸れ、土砂崩れが頻繁に起こりました。領民はこれを、山田の局の怨霊の仕業ではないかと噂合いました。

これにより本腰を入れて山田の局の霊を沈めねばならぬと判断した氏貞、比叡山より日佑上人という高僧を招いて調伏を頼みました。事態の顛末を聞いた日佑は顔をこわばらせ、こう言いました。

「それは普通の祈祷では無理でしょう。大釜を三個作り、その窯に怨霊を封じ込めましょう。」

これを聞いた氏貞、言われた通りに窯を三つ作らせて用意して、日佑と共に調伏の祈祷を催しました。しかし一刻ほど経つと徐々に天候は荒れ始め、豪雨が降り雷鳴が轟く悪天候になりました。そして一瞬の閃光の煌めきの後、凄まじい轟音と衝撃が氏貞達を襲います。轟いた雷鳴は釜を木端微塵に吹き飛ばし、祈祷を上げていた日佑はこの雷の直撃を受けて亡くなりました。

呪いは、まだ続きます。

宗像氏と恨みの怨念6

そして時はまた流れます。自らの責任ではないにしろ、血生臭い事件の後に当主となった氏貞は十五歳になりました。この氏貞にはお色の方という妹がいました。

この時、氏貞の母はお色の方、つまり自分の娘に喉を食い破られて重傷を負うという事件が起こりました。

幼いお色の方は楽しそうに双六などの遊びをしていたのですが、突如顔を引きつらせてけたたましい奇声を発すると、母親に飛びついて喉を食い破ったといいます。そして口端から血を滴らせながらお色の方は叫びました。

「我は山田の局の怨霊である!よくも私のみならず娘までもを無残に殺してくれたな、その報いを思い知らせてくれよう!」

この家督相続の際に起こった血なまぐさい事件は宗像家でも口に出してはご法度となっており、まして当時幼かった氏貞やお色の方はこの山田の局の死についても、菊姫の死についても知らない筈でした。そのお色の方が、なぜこんな事を叫んだのか。

お色の方は今だ奇声を上げて荒れ狂い、大の男達が数人がかりで取り押さえるのがやっとという有様でした。その後、お色の方は意識を失い大人しくなりましたが、その後は錯乱を繰り返したようです。また、お色の方に喉を食い破られた母親も一命は取り留めるも、その後は寝たきりになったようです。

この所業、無残にも殺された山田の局の呪いだったのでしょうか。

宗像氏と恨みの怨念5

宗像氏貞が跡を継いだ後は、その母である側室の方も主城の白山城に移り住んだようです。ですがこの側室は正氏の正室の山田の局と、その娘で先代当主の妻である菊姫の存在を日頃から邪魔に思っていました。二人は今や白山城から追い出されて、山田村という所で少ない侍女たちを連れて暮らしていました。

元は側室ですので、正室の身分であった二人が憎らしかったのかのかもしれませんし、はたまた息子である氏貞の今の立場を脅かすのではと懸念したのでしょうか。ある日側室の方は御家人衆らに命じてこの母娘を殺害させました。この時屋敷にいたのは侍女を入れて六人の女達、彼女らは無残にも惨殺され、遺体は宇原の辻に運び出されて穴に埋められて痕跡も残らぬようにその上を踏み固められました。ここまでした事に恐怖すら覚えますね。

その上この時、菊姫の夫である氏男の父・氏族とその妻、そして三歳の幼い子供達まで田楽刺しにされて殺されるという惨たらしい殺し方をされたそうです。こうして側室の方は目障りな宗像一族らを徹底的に排除する事に成功し、息子の氏貞以外の宗像の血を絶やしつくしたのです。こうして氏貞は母親によって、その当主の地位を固めるに至ったのです。

宗像氏と恨みの怨念4

さて時代は動きます。天文二十年。当時の宗像氏の当主であった宗像氏男は大寧寺の乱で大内義隆の自害に殉じて亡くなってしまっていました。(この宗像氏男は氏佐の孫とも言われています)

さて、当主が亡くなったら大体起こるのが家督相続問題です。この時宗像家は揉めに揉めていたようです。何故なら氏男は家督を継いでから僅か四年しか経っておらず、伯父の宗像政氏の娘である菊姫を正妻としていましたが、二人の間にはまだ子供がいなかったのです。そこに大内義隆を討った陶晴賢より一人の少年が送られてきました。

その少年は氏男の伯父である、政氏の側室の息子だというのです(この側室は陶晴賢の妹)。

これにより宗像家はより一層揉めに揉めました。特に亡き夫の隠し子の存在を知った正氏の正室・山田の局の怒りは凄まじく、この少年を国へ追い返そうと兵を差し向けました。が、陶晴賢もそれは予測していたのでしょう。向かって来る刺客共を返り討ちにし、敵対勢力の城まで落として白山城に入ってしまいました。

その後、反対勢力は半ば力ずくで抑え込まれて粛清され、少年は宗像氏貞として家督を継いで大宮司になりました。ここから、何の因果か血生臭い歴史がまた一つ生まれてしまいます。

宗像氏と恨みの怨念3

さて父・氏佐の亡き後は甥の興氏が跡を継ぎました。伯父が辱めを受けて自害したというのに元凶である政資には逆らう事も出来ず、苦汁の日々を過ごしていた事でしょう。しかし運命の日はやって来ます。少弐家が有智山城へ出陣するという報を聞きつけました。恨みを晴らすならばここだと判断した興氏はこの動きを山口の大内氏に知らせます。

大内氏は筑前にいた杉興政へ出陣の指示を出し、周防からも増援を派遣します。

攻撃を受けた少弐隊を率いるのは政資の息子少弐資元。しかしこの杉勢の攻撃はあの肥前の熊の、龍造寺隆信の祖父・家兼らの活躍によって撃破されます。その後、資元は奇襲を成功させ、少弐家は勝ちの勢いに乗ったまま杉軍を追撃を開始。

態勢を立て直したかのように見えた少弐軍でしたが、その後一隊により頑強な抵抗を受け、態勢を立て直した杉の軍に反撃を受けて破れてしまいます。この時少弐家へ必死の抵抗を見せ、態勢を立て直すために奮戦した隊こそ、家宝を奪い当主を自害させるまで追い込んだ少弐家への恨みに燃える、宗像の軍だったのです。

その後、少弐政資は肥前に戻るも豪族達の離反が相次ぎ、自害します。ここで少弐家は一旦滅びるも、生き残った資元は御家を再興。しかしその息子の冬向の代、政資の孫の代で少弐家は断絶する事になってしまいます。氏佐の怨念の成した事だったのかは分かりません。

ですが、その後の宗像氏の怨念騒ぎはまだ続くのです。しかも、自らの家に…

宗像氏と恨みの怨念2

政資はこの宗像氏の家宝である猫の金像がどうしても欲しかったのか、その家宝を差し出すように何度も宗像氏に要求します。もしかしたら宗像氏は親大内だったため、ちょっとした嫌がらせのようなものもあったのかもしれません。氏佐も大切な家宝なので勘弁してくれと何度も固辞するも、とうとう断り切れずこの金像を氏佐は政資に献上しました。しかしここで更なる問題が起きてしまいます。

「猫の像は一対であると聞いている!物惜しみなどしないでいま一つも献上せよ!」

もちろん家宝の猫の像が一つなのは誰よりも宗像氏が知っています。この言いがかりに遂に氏佐はブチ切れます。

「猫の像は一つしかなく、既にそれは渡している!政資め、無いものを要求して古代より続く宗像の名を辱めるとは許せぬ!この恨み、少弐家を七代の内に滅亡させる事で必ずや晴らして見せようぞ!」

氏佐はそう叫ぶなり自らの小指を噛み千切り、滴る血で壁に少弐家への恨み事を血文字で書き綴ると自らは切腹して果てました。たった一つの猫の像で、一人の人間が死に、そして一つの家が呪われる出来事になるとは、一体誰が予見したでしょうか。

そしてその後、その氏佐の呪いは成就していく形になります。

宗像氏と恨みの怨念1

今回からは人知れず滅んでいっている九州の勢力の一つ、宗像氏に何があったかを少しづつ説明していきます。おどろおどろしいタイトルから分かるようにかなりドロドロした経緯ですが、ゆっくりと解説交じりに説明していきましょう。

さてどこから話すべきか、宗像氏は古くから伝わる家であり、天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする家です。あの有名な天武天皇の息子である高市皇子の母親・尼子娘もこの宗像氏の出身とされています。宗像氏は平安のもっと昔より伝わる、由緒正しい家なのです。

ではこの家がなぜ滅びるに至ったのか?そこにまず絡んでくるのは少弐家、龍造寺家の衰退にもかかわってきたあの少弐家との争いが始まりです。

少弐家は大内氏を北九州の地から追い出して、今の太宰府辺りの土地を奪還するために幾度も戦っていました。念願かなって太宰府を手に入れるのですが、その後も大内氏を追い落とすため戦を続けます。戦を続けるためには資金が必要。そこで少弐家の少弐政資は周辺の豪族達に周辺の豪族たちに過剰な軍役や貢納を課し始めました。

この頃、宗像大宮司の宗像氏佐のもとには家宝として金の猫の像がありました。この金の猫が始まりです。

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