大内義長と大内家の顛末・前

さて陶晴賢の死後、大内家もまた滅亡の一途を辿ることになるのですが、今回はその大内家の滅亡への顛末をご紹介していきましょう。

まず大寧寺の変により陶晴賢は主君・大内義隆を自刃させると、晴賢は大友宗麟の弟を「大内義長」として当主に据えました。もちろん、建前だけは主君であり、ただの傀儡当主です。こうして家中の実権を握った陶晴賢ですが、この体制はさほど長くは続きませんでした。

まず前々から仲の悪かった豊前守護代の杉重矩との対立が再び表面化。晴賢は合戦の末に重矩を長門にて滅ぼしましたが、今度は石見で吉見正頼が挙兵しました。これに呼応した毛利元就に散々翻弄されたあげく、安芸厳島でついに敗死したのは今までの記事でも何度も説明してきましたね。

さて晴賢の死後も大内義長は健在だったのですが傀儡当主の彼では家中をまとめきれず、毛利による急激な侵食に対処しきれずにいました。そんな折、杉重輔が陶氏の富田若山城に突如攻め入り、晴賢の嫡男である陶長房らを討ち取ってしまったのです。陶一族を滅ぼすことで父親の敵討ちと毛利との関係修復を同時に実現しようという意図のものでしたが、これは大内義長の関知していない勝手な独自行動でしかありませんでした。

 

小早川隆景、大胆にも

今回は陶晴賢と毛利家の戦いにおける、小早川隆景の大胆エピソードをご紹介します。

弘治元年(1555年)、陶晴賢は大軍を率いて毛利方の宮尾城を攻め落とそうとしてしていました。実はこの城は元就が晴賢をおびき出そうと厳島に建てた囮の城であり、彼の考えた策には絶対に必要な城でした。なので、

「必ず勝機はあるからなんとか三日持ちこたえてほしい」

と城を守る兵に伝えたい元就でしたが、連絡手段がありません。そこに進み出たのが三男・隆景。彼は

「小舟が一艘、陶方の船にまぎれて往来しております。おそらく鳩ヶ浦に暮らす漁夫でしょう。この漁夫を利用すれば城方と連絡がとれるかもしれません」

と言い、元就は隆景に任せることにしました。

隆景は漁夫の舟が陸に着くのを待ち、「何のために往来しているのか」と聞きました。漁夫は「戦があろうとなかろうと我らは漁をして魚を売らなければ生きていけません」と答えます。これを聞いた隆景は漁夫の魚を全て買い取り、そのほかに金を渡して宮尾城に運んでほしいと頼み込みました。

これを漁夫は承知し、隆景は家臣二人を連れて魚を入れる船底に潜り込み、息を殺して海を渡り無事に宮尾城にたどり着く事が出来ました。隆景の到着に宮尾城を守る兵士は大いに喜び「必ず援軍はあるから三日持ちこたえよ」という元就の言伝にたちまち士気を上げました。

その後、隆景はまた船底に隠れて城から脱出したそうです。

毛利家三男隆景の大胆な入城、脱出エピソードです。

陶晴賢の首実検

今回は厳島合戦終了後の、陶晴賢の首実検に関しての逸話です。晴賢の首に関しては以前にもご説明しましたが、その後の扱いについてのお話です。

厳島の合戦も終わり、敗軍の将・陶晴賢の御首は公卿衝重に据えられ、これに諸城の諸組の頭たちが左右に並びただただ畏まっている中。毛利元就、隆元親子は鎧を召して、床几に腰を据えます。その左右に平佐源三郎が太刀を持って控え、その前方に回神藤十郎が弓矢を持って控えていました。

元就の右やや前にて陣貝を膝に乗せるのは、市川式部少輔。市川の右手には太鼓があり、赤川十郎左衛門がバチを手にして畏まり、また床几の右手には、粟屋孫次郎が手拭を扇に乗せて待機。その少し前に秋山隼人が御団を持って膝をついているという、物々しい雰囲気の首実検でした。

元就は床几から立ち、鞭を手にとると、

「貴殿が義隆公に叛逆したのが悪かったのだ。これも天命、恨むなよ」

と言って、

ぺーん、ぺーん、ぺーん、

と三度、陶晴賢の首に向けて鞭を振り下ろしました。その後公卿衝重から首を引きずり落とし、「拾いおけ」とそれを陣僧に拾わせました。たとえ死んでも敵将は敵将であった、と思わせられる話です。

あえてひとつ突っ込むならば、お前も一緒に裏切ったんとちゃうんか、というところでしょうかね。

 

厳島合戦と琵琶法師・後

さていい情報を得たぞ早速報告しなきゃ!となった琵琶法師はこれを陶晴賢に報告。しかし全てが元就の「計算通り」。

数に劣る毛利軍は険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのでした。

琵琶法師からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これももちろん嘘)を受け取っており、厳島に渡ることを決めて弘治元年(1555年)10月2~3万の大軍で厳島へ渡海してしまいます。この時かの名将・弘中隆包が厳島への渡海を反対したのですが、琵琶法師からの偽情報があったため信用してもらえず、却下されたと言います。

その戦の結果は皆さんご存知のとおり。陶軍総大将・陶晴賢討ち死、弘中隆包親子も討ち死、陶軍は約5000人の死者を出して、毛利軍の大勝利に終わりました。

さてここで気になる例の琵琶法師ですが、

「いやあお前ののおかげでわしは長年の思いを遂げることが出来たからのぉ。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲め!!!!!」
「えっ?」(ざばーん)

開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。

しかし死をくれてやるというのは源義朝の「美濃尾張(身の終わり)をくれてやる」になんだか似ていますね!蛇足!

厳島合戦と琵琶法師・前

話が少し先走ってしまいましたが、厳島合戦の話に戻りましょう。

元就が座頭衆と言う琵琶法師の集団を組織していたのは前にもご紹介しましたが、陶晴賢もまた、一人の琵琶法師を間諜として元就の元に送り込んでいました。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまっていました。

しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先に迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにしました。

先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流した上に更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、それをあえて陶側に奪われるよう手配しました。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまいます。

計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として厳島合戦直前の軍議にも参加させました。そこで元就、

「陶軍に厳島に渡られると困るなー、厳島に作った城はすっごくちっちゃいし、制海権取られて海から攻撃されるし困るなー」

「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返ってくれるから、助かるんだけどなー」

と言いました。モチのロン、全部嘘です。

息子の手紙を読んで、パパ

さて今回はあのネガティブすぎると巷で評判の(どこの巷だ)毛利隆元の手紙を呼んだ、毛利元就の、つまり父親の反応はどうだったのか?についてです。それについての手紙が残っていますので、ご紹介しましょう。あの手紙魔、平均2,8メートルもの手紙を書く毛利元就の書状であることを念頭に置いて読んでください。

『毛利家文書 七六三』

毛利元就書状

寄越して頂いた隆元の書き置きを日々拝見しております。

何と言えばよいのか、とても言葉では言い表せず(原文:言語道断)、感涙に堪えません。これ程までに禅師を頼られているとは知らず、とても感謝しております。

是非とも御上国下さい。

また、お越しになられた際には隆元の菩提を弔ってやりたいと思います。

詳しくは昇公に申しております。恐惶謹言。

卯月十二日 元就(花押)

『毛利家文書 七六四』

み、短い!(驚愕)

本当に短いのです。まさに言語道断、悲しすぎて筆すら握れない状態だったのか、我が子がこんな思いでいたということを知らなかったという悲しみなのか。厳島合戦とかでも戦に消極的な元就を叱責したり、

「じゃあ二人共死んじゃ困るからパパだけ戦に行くね」

「当主不在で戦とか指揮が上がらん。行く」

と言った隆元がこんな思いだったとは誰が予想したものか。これ以後、今までの勢いが嘘のように毛利家は傾いてしまい、折々で元就は嫡男・隆元の死を悲しんだといいます。

本当に稀有な人だったのでしょう。

 

兄の手紙を読んで、弟(二番目)

さて前にまるで遺書のようなネガティブさを感じさせる手紙を書いた毛利隆元についての逸話を紹介しました際に、弟、小早川隆景の反応があると書きましたのでここでご紹介しましょう。兄の死後「あの手紙」を読んだ、小早川隆景からの書状です。

小早川隆景書状

書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。

今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、私と元春も力の限りを致すつもりでおります。

元就の御心底についてはお察し下さい。

一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。

卯月十一日 隆景 (花押)

あの普段から冷静さを漂わせている小早川隆景でさえ、兄の死後は狼狽えて「毛利家は終わった!」と叫んでいたそうです。まあ隆元が死んで一気に毛利家は傾きましたので(以前の記事参照)、仕方のないことですね。

嫡男の苦悩・後

右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公

足下 タカ元(花押)

出典は毛利家文書の七六一、「毛利隆元自筆書状」から致しました。ことごとく後ろ向きでネガティブな内容でありながらも、「でもこんな風に書いてますがいつもは頑張っています」と書いていて、本当に彼の生存時は毛利家が上手く回っていたことを考えると、そんな風は周囲には見せようとせずに頑張っていたのでしょうか。だからこそここまで思いつめてしまっていたのでしょうか。

父・毛利元就が以前、どこか心配性だ、と書きましたが、息子の隆元は心配性をこじらせていて、誰にも打ち明けられないままだったのかもしれませんね。つくづく途中で亡くなってしまったことが残念な武将であると毛利隆元に関しては思わざるを得ません。

因みにこのまるで遺書のような手紙は、その死後、毛利家に送られて読まれることになります。その際の元就と弟・隆景の反応もありますので、また別の機会にご紹介したいと思います。

嫡男の苦悩・中

一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はおりません。ですから私に才覚器量があったとしても、到底父には敵わない事でしょう。今のように私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや他国一円においては沙汰の限りではありません。

一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません。しかし只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。

一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております。

一、右、私の心の内を申すままとしました。

一、このように申したとて、国家を保つ事は常々油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離

此の理は悉くさとりました

一、天道満ヲカク、

此の理を以ってさとりました。

 

嫡男の苦悩・前

尼子家粛清の件の後、元就はいよいよ陶晴賢との決戦・厳島の戦いが始まります。しかしこの1555年の一年前に、ある武将がある人物に向けて手紙を送っています。その武将とは毛利隆元、毛利元就の嫡男です。

天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の竺雲恵心に送った有名な手紙。その文章を挙げてみましょう。こちら、涙なくては読めない手紙です。長いのでゆっくり、分けながら行きましょう。

「恵心公宛隆元自筆書状」

謹述胸念

一、来世の善所の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに善い行いを積むように致したく思っております。

一、現世については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

一、故に我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。それは至って明白な事であります。またそのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。しかしこれは、偏に父・元就の信心の故と思います。私にはそのような信心がないため、毛利の家運の尽きる時に当たって生まれたのだと思っております。