島津日新斎・幼い頃

さて母・常盤夫人により熱心な教育を受け、後になんやかやで本家を乗っ取る形で島津家をまとめ上げた島津忠良こと島津日新斎。彼は息子の島津貴久と共に「島津家中興の祖」と称えられています。そんな島津日新斎ですが、幼い頃は教育の為に母常盤よりお寺に預けられていたようです。上杉謙信もそうですが、この当時、言う事を聞かない子をお寺に預けて性根を叩きなおして貰う教育をして貰う事は良くある事です。

ですが上杉謙信同じく、島津日新斎も結構な悪ガキだったらしくお寺の僧達は手を焼いていたようで。

上杉謙信はあまりに手がかかり、何度説教をしても聞き入れないので一度預けた寺から返却されるという事がありましたが、こちらはもっと上を行きます。お寺の対応が。

まぁ悪ガキだった日新斎。勉強をさぼったり暴れまわったりしていたのですが、それを見たお坊さん、すっと手に取ったのは薙刀。

「この悪ガキどもが―――――!!!!!!!」

次の瞬間薙刀を振り回し子供達を追いかけ始めた。いやはや九州の坊さんはやる事が違うぜ・・・!まぁ泣きわめいて逃げる子供達。だが日新斎は逃げずに立っている。なぜ逃げないかと問いかけると「履物が無いから逃げられない。とってきてくれ」とのこと。

この言葉にお坊さんは「これこそ正に武家の子!」と感動したと言われています。アレー?

毛利家三本の矢の一本3

さて最後にほんの少し、偶にはお涙ちょうだい風の逸話をひとつ。

嫡男毛利隆元の死に毛利家は大混乱。この時毛利元就は三日三晩泣き通しだったと言われています。その上あっけなく傾く毛利本家、圧迫される経済難に「もう天下とか諦めよう・・・」と弱気なコメント。子供の頃厳島神社で「男なら天下統一ぐらいお願いしとかなきゃな!」とか言ってた頃がただ懐かしい。

とまあ落胆し泣き崩れていた毛利元就に、一通の手紙が届きます。それも厳島神社から。そこにはひとつの文章が同封されていました。それは亡くなった隆元が亡くなる前に、厳島を詣でて願い捧げたものでした。

「どうか、父を長生きさせてください。もし父に巳歳の災難が降りかかると言うのであれば、どうぞ、私を身代わりにしてください。全ての厄災は私が父の代わりに引き受けます」

この手紙を見るや否や、元就は再び泣き崩れたと言います。この嘆願書がどこまで効果を発揮していたのかは分かりませんが、この親孝行は喜んでいいやら泣いていいやらの難しい所でもありますね。

そんな毛利隆元は良く平重盛と重ねられます。二人とも働き盛りに亡くなって父親を嘆かせ、同じように父の長命を嘆願した事によるものでしょう。興味が湧いたら調べてみましょう毛利隆元、かなり凄い武将です。

さてでは次からは再び九州動乱へと戻ります。

丹羽長秀の敵

さて、今回は少し寄り道して織田家の重臣なのに少し影が薄い気がする丹羽長秀についての事を少し紹介しましょう。

丹羽長秀は腹にできものが出来るという病気に侵されていました。そして危篤にまで陥ったのですがその時、彼もまた織田家の武将であったと言わんばかりの発言を見せます。

「たとえどのような病でであったとしても、我が命を失わせるのならばそれは正しく我が敵である。どうしてそのような敵を討たずして死ねようか!」

こう言うなり腹をかき切って腸を引きずり出した丹羽長秀。しかしそれを見てみると、奇妙な化け物が出て来ました。形は石亀のようで、くちばしは鷹のように鋭く尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡がありました。これぞ正に己を苦しめていた病魔だったのでしょうか。

その後長秀は自ら事の次第を記した手紙を書き、我が家を良いように処理して欲しいと書きしたためた手紙と共にこの怪物とそれを討った刀を添えて秀吉に贈ったとされています。

これを見た秀吉もまた驚きながらも、此方もまた自ら手紙を認めて「間違いなくご子息に本領を与える」と固く誓いました。長秀はこの返事を見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなったとされています。何やらちょっとホラーな部分もあるこの逸話ですが何がホラーかというと

長秀が腹を割いて二日間生きていたという事でしょうか・・・。

そんな鬼五郎佐の壮絶な最期でした。