北の方の呼び名について

さて奥さん、側室などの話が続きましたがここで「北の方」についてのご説明をしましょう。「北の方」とは性質の呼び名です。元就の側室の中の方は城の東に移り住んだので「東の方」と呼ばれるようになりましたが、「北の方」の呼び名も同じような理由があります。

そもそもの北の方の呼び名は平安時代に生まれたようですが、これは平安時代の寝殿造で正室は母屋の北側の屋敷に住んでいることが多かったことから「北の方」の呼称が発生したという説もあります。東の方と同じく、住んでいる場所で呼び名が決まるのですね。元就の娘の五龍局も、居城五龍城から来ていますし、織田信長の正室・濃姫も安土城に移り住んでからは安土殿と呼ばれたとの話もあります。

もう一つの理由が、台所です。台所は昭和40年代まで北側に作られることが多かったのです。何故かというと冷蔵庫がなかった昔は、南側に台所があるとそれだけ食料が傷みやすいからです。涼しい北側にキッチンを作っていたのですね。

今は冷蔵庫なども普及していますし、DKで食事の場所とキッチンが一緒になっていることも多いので明るい南側にキッチンがある場合が多いようです。

ちょっと余談で、戦国と現代の「北の方」でした。

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陶氏との対立

天文20年、ご存知大寧寺の変により、大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反によって打倒され、養子の大内義長が大内家の当主として担ぎ上げられます。この件、特に当主の交代は元就も同意見だったようで、前々から晴賢と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握しました。そして謀反がなった後、晴賢は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるなど、この時点では元就と晴賢はまだ好意的な関係にあったようです。

元就はこれを足がかりに勢力を拡大、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめました。その後、1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退しているなどしているところをみると、着実にその勢力と力は増していっています。これには晴賢も驚異を抱き、支配権の返上を要求しました。

当然ながら元就はこれを拒否。両者は徐々に関係が悪化していきます。

そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻しました。晴賢の出陣依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたのですが、晴賢への不信感を募らせていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵が取り止めに。隆元は人質時代に大内義長に手厚く饗されていたので、晴賢の謀反に不満を抱いていたのでしょう。(まぁ人質時代に隆元と元就の窮地を救ったのも晴賢なんですが・・・)

これにより二方の関係は最悪化し、後の争いにつながっていきます。

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井上一派粛清

毛利家の渦中に、井上元兼という人物がいました。彼ら井上一族は元は毛利家と対立していましたが、元就の父の弘元により家臣に組み込まれ、それ以後は毛利家によく尽くして働いてきました。元兼も優秀な人物であり、特にその才覚を主に財政面において活躍したと言われています。また、元就の家督相続を井上就在・井上元盛・井上元貞・井上元吉ら他の井上一族とともに支持するなど、元就の補佐を努めて大いに功績をあげていました。

しかし財政面への明るさから横領を始め、家中への強い発言力から専横を始めるようになってしまいます。そして元就もまた、決断を下しました。

1550年7月13日に、井上元兼とその一族は殺害され、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させられました。これは二度とこのようなことが起きないために、毛利家内での統率力を強化しました。

しかしこの際には、井上一族を全てが殺されたわけではありません。前回にの井上光俊のように忠義を尽くしていた者や、井上一族の長老である光兼など、恩義のある者達は助命しています。この際に処断されたのは、主だった30名のみのようです。

因みに元就自身がこの誅伐に関して、「井上には幼いころに所領を横取りされた」などと手紙に残っているので、積もり積もっていた恨みもここで噴出したものと見て間違いないでしょう。しかしその一方で、家臣を処断することに強い苦悩も感じていたようです。

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毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。

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元就、一度目の隠居と吉川家へののっとり画策

愛妻・妙玖夫人を亡くした元就は隠居を決意。嫡男・隆元に毛利家の当主の座を譲ります。しかしこの時の隠居は形式だけのようなものであり、自分を毛利・吉川・小早川の上に立ついわゆる「大御所」として位上げしたようなものであったと言われています。この後も隠居とは仮のもので、毛利家の実権は元就自身が握っていたようです。

さて元就はここで妻・妙玖の実家である吉川家へ次男・元春を送り込みます。

当時吉川家当主だった吉川興経は新参の家臣団を重用していたために吉川経世ら一族や重鎮と対立が激しく、家中の統制ができなくなっていました。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出たのです。これを元就は初め元春は子の無かった異母弟・北就勝の養子にする約束があるからと断ったのですが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出しました。この時に元就の頭に以後の両川政策があったかは不明です。

一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられていました。興経は吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定だったのですが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移しました。それでも興経派への警戒を怠らない元就は、吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送ろうとはしませんでした。

 

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小早川家と徳寿丸

天門13年。1544年、毛利元就は正室・妙玖婦人との間に産まれた三男の徳寿丸を小早川家へ養子に出すことを決めました。

小早川家には元就の姪(早世した兄である毛利興元の娘)が嫁いでいたのですが、前当主だった小早川興景は吉田郡山城の戦いで毛利家への援軍に駆けつけるなど元就と親密な関係を築いていました。

しかし天文10年に興景は子供もいないまま早世してしまいました。困り果てた小早川家の家臣団から元就は徳寿丸を養子に出して欲しいと要望を受けましたが、この時は徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っているようです。一説にはこの時断ったのは妻の妙玖婦人がまだ幼い徳寿丸を手放したくなかったためとも言われていますが、真相は定かではありません。

しかし困ったのは小早川家の方です。この頃の安芸は戦が頻繁に起こっており、小早川家は当主不在のまま何度か戦に駆り出されていました。困りはてた小早川家家臣団は今度は大内義隆に元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこみました。元就も義隆の頼みを断ることは出来なかったのか、はたまた別の意図が生まれていたのか、全当主・小早川興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行き、小早川家はなんとか存続することになったのです。

 

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小領主からの脱却と小早川家への養子

着実に力をつけていく毛利元就は尼子家より離れて大内方になっていきます。それを懸念した吉川興経から尼子家との若いすべく斡旋が行われますが、これは尼子家の方から破談にされます。息子、嫡嗣隆元を大内家への人質と出す元就。

そして1542から1543年にかけて、大内氏の尼子討伐の戦が行われることになり元就もこれに従軍します。これがあの第一次月山富田城の戦いになるのですが、前述した吉川興経らの裏切りなどもあり大内軍は敗退。元就もあわやという状況にまで追い込まれますが、渡辺通らが身代わりとなって討ち死にして九死に一生を得ることになります。これ以後、じわじわと尼子、大内家の安芸国内への影響力は低下し始めます。

これこそ毛利家の躍進の好機。力をつけていっていた元就は小領主から脱却し、大名たちの顔色伺いをしていた生活から抜け出そうと試みます。城を家臣に奪われて住むところを無くし、乞食若君と呼ばれて蔑まれていた辛苦の日々が元就を成長させ、逞しくしていったのでしょうね。

そして元就は三男・徳寿丸を小早川家の養子に出す決意をします。この養子に出す経緯についても色々なことがあるのですが、それはまた次回から詳しく解説していくことにしましょう。

 

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元就の当主就任

さて何度か書きましたが毛利元就は次男であり、家を継ぐ立場ではありませんでした。ですが兄の子であり、当主であった甥の毛利幸松丸が九歳という早さで死去してしまったので、毛利家は後継ぎがいなくなってしまったのです。元就は分家の人間とはいえど、毛利家の直系男子。家督継承の最有力者でありました。家督を継ぐどころか成長するまでにも色々な苦労があった元就ですが、多くの戦でその才覚を見せつけたことも周囲を納得させられる材料となったのではないかと思われます。

しかしだからといって何のもめ事もなく円満に元就が後を継ぐことになったわけでもないのです。毛利家内でも家督継承については色々揉めたらしく、この元就の家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されています。毛利と言えば今ではすぐ名が出てきそうな毛利元就ですが、実際には色々な苦労を経てその座に就いたのです。

さてここで一人の人物を紹介しましょう。彼の名は相合元網。元就の異母弟です。彼は元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示して「今義経」とも称えられた毛利一門の若きエースです。今義経ってほめている名前か?と問いかけたくなるがそれはまぁおいておきましょう。

元就と元網は母親こそ違う兄弟ですが、とても仲が良かったそうです。そう、元就が毛利家を継ぐまでは・・・・。

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戦国の異名と、魔王・2

こんな人物が現代の世の中でいても恐れられるような気がしますが、昔の人たちから見れば更に恐ろしかったと思います。もう生前から鬼か魔王だったのではと思われていても不思議ではありません。

そんな光和の力がどれほどのものであったかというエピソードをひとつご紹介しましょう。

当時、居城・銀山城へ登る道に大きな岩が出ていて馬が通るのにとても不便でした。しかしこの大きな岩は並大抵の大きさと重さではなく、6、70人の人夫の力でなくては とても動かすことができないと言われていました。仕方がないのでこの大岩は大昔からそのままになっていたと言われています。しかし光和は自分の力試しにこの岩を動かしてみようといって、なんとこの大岩を 軽々と谷底に転がしてしまったと伝えられています。

その上この岩、現存しています。光和が投げた岩は山麓の安佐南区祇園帆立に「いぼ地蔵」「投石地蔵」として残っていて、この岩の側にある松の葉で 人の体に出来たいぼをつつくとそれが落ちると伝わっています。こんな関連の逸話は沢山ありますが、なぜいぼがとれるような伝承になっているかどうかは全く不明。光和様のお力じゃあ、という事なのでしょうか?

むしろ伝承まで混乱気味なのが少し面白いですね。

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西国地方の桶狭間

まさかの熊谷元直の討死を知った武田元繁は大激怒。有田城に一部の兵を残して、自ら兵を率いて毛利・吉川連合軍に対応します。士気を上げた毛利・吉川連合軍は兵を進めてこれに対応、勢いに乗るべく篭城をしていた小田勢も有田城から討って出ます。しかし多勢に無勢、数で圧倒的に不利なのは間違いなく連合軍。押され始め、敗走をし始める連合軍を毛利元就は必死に鼓舞して、何とか踏みとどまらせます。

拮抗する両軍に元繁は苛立ち始めます。ついに元繁は馬を狩り、自ら最前線に向かいます。そして又打川を渡ろうとしたところで、これを待っていたとばかりに元繁に向かって毛利軍が一斉射撃を開始しました。これを受けた元繁、馬から落ちて川に転落し、敢え無く打ち取られてしまったのでした。この時元繁を討ち取ったのは、毛利軍の井上光政であったとされています。古今東西殆どの場合、どれだけ押していても大将を失えば戦は終わりです。元繁を失った武田軍は総崩れとなって今田城に撤退しました。

ここに中国地方の項羽、武田元繁はその終わりを迎えました。この時から毛利元就の名前が広く知られていくのです。圧倒的な兵力差を覆し、対象を討ち取ることでの勝利・・・この戦は、西国の桶狭間と呼ばれています。

 

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