熊谷氏・吉川氏

さて始まった合戦は既に人数からして大きく違いました。武田元繁のもとには熊谷元直ら国人衆が集い、その軍勢はなんと5000。大群が大内方の城・有田城を包囲しました。これに対して毛利元就は自軍の150と本家からの700、そして吉川家の援軍が300・・・合計1150で対抗しようとします。

有田城へ進軍した毛利・吉川連合軍は、武田方の熊谷元直率いる500騎と対峙しました。連合軍は矢による遠距離攻撃で武田軍に対抗していましたが、此処で元就は挟撃を懸念し、熊谷勢に肉弾攻撃を開始します。しかしこの時元直は連合軍を少勢と侮り、終始正面からの攻撃しか行いませんでした。もしこの時、元就が懸念したように挟撃策を行っていれば・・・・いや、直接攻撃をしたことで元直も挟撃するまでもないと思ってしまったのかもしれませんが。

しかし戦国時代で相手を少数と侮るのは敗戦フラグです。戦いの最中に元直は前線に出て、兵を叱咤していたのですが、運悪く矢が彼の額を射抜きそのまま落馬してしまい、宮庄経友に首を取られました。元直が打ち取られたことで熊谷勢は勢いを失い、部隊は壊滅。ほうほうのていで逃げ出すようになってしまったのでした。

ここで名が出た吉川と熊谷。この二つの家はのちのち毛利家と縁深い家になっていくので、覚えておくと面白いですよ。

 

 

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有田合戦の開幕

1515年、京都から帰国した武田元繁は、大内氏の主力が不在の今こそが武田家の旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の従属から逃れる好機と見て行動を開始します。取り始め大内義興から監視の役目のように貰った妻と離縁。尼子経久の弟・久幸の娘と結婚して尼子家と手を結び、大内家から独立しようとしました。

これと同時に元繁は大内氏勢力内への進行も開始。元繁は内乱の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。元繁はこの後に己斐城を攻めましたが、こちらは数ヶ月の包囲によっても落ちずにいました。

一方の大内義興は、武田方山県氏の一族である壬生氏・有田氏・今田氏を牽制するために山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされたことで元繁は己斐城の包囲を解き、その矛先を北、山県郡の大内側の諸城へと向け始めます。

そんな中、毛利家の当主であった興元が1516年8月に死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。叔父であった毛利元就が後見役となるが、元就もこの時は20歳。毛利家家中は動揺し始めます。これに「項羽」元繁は動き始めます。

この時旧守護の武田氏の権威と「項羽」と謳われた武将・武田元繁を相手にするのは、小勢力の毛利氏や吉川氏に加えて、若年の元就では無理だろうと思われていました。その上主家の大内氏は主力を京都に引き連れていっているので援軍の派遣も望めない状況。誰もが元繁の勝利だろうと予測していました。

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有田中井手の戦いまでの経緯

今回は有田中井手の戦いに至るまでの経緯から見ていきましょう。

それは1508年の事。大内義興は足利義植を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従って上洛しました。一方、在京していた若狭武田氏当主であった武田元信は、足利義澄との密接な関係を維持していました。この辺りから、既に嫌な予感が漂っていますが…これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなります。上洛した義興は義稙を将軍職に復帰させると、自身も管領代として京都に留まったのは皆さんご存知ですね。元繁もこれに従い駐留を続けていましたが、大内氏当主と主力が不在の安芸国では厳島神主家で後継者を巡って内輪もめが発生していました。

これに不安を感じた義興は、1515年にこの内部の乱れ鎮圧のために元繁を帰国させることを決定しました。しかし義興もまた元繁に不安を感じていたのかもしれません。この時義興は、養女としていた権大納言飛鳥井雅俊の娘を元繁に嫁がせています。おそらく、元繁の離反を防ぐためだったのでしょう。

しかし不安は的中、元繁は帰国後すぐに妻を離縁して、尼子経久の弟・尼子久幸の娘を妻として大内氏に反旗を翻します。元繁が尼子方から支援を受けたのも、こんな経緯があってこそなのです。

 

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謀神の初陣

さて父親も母親も早くに亡くしてしまい、兄は京都に上がって、城は部下にとられて…乞食若君と呼ばれるまで落ちぶれていた毛利元就。雌伏の時代を生き抜いた彼も、ようやく初陣を果たします。その戦いの名は有田中井手の戦いです。

有田合戦とも呼ばれるこの戦いは、永世14年に起こった戦いであり、この頃中国地方で力の有った尼子氏の援助を受けた武田元繁が吉川氏の居城であった有田城を攻めた事が発端の戦いでした。この武田氏の進行も、安芸国旧守護の勢威回復を目指していたというのが通説となっています。元々大内氏の配下であった武田元繁ですが、実はこの当時、かの大内義興氏は上京中。つまり主の不在時期に独立を画策したものと思われます。

折しも毛利家は元就の兄が死去し、家中は混乱を極めていました。その跡継ぎの幸松丸は2歳。後見人の元就もまだ20歳です。周囲のこのような状況も、元繁が独立を狙って決起した理由の一つでしょう。

武田元繁についてはまた詳しく触れていきたいと思いますが、この時元就は20歳。要するに20歳で初陣を果たした事になります。その後結婚をして、27歳に長男隆元(それまでに女子一人)が産まれている事を考えると、戦国時代では珍しく成人も結婚も遅かった人物です。毛利元就という人物は大器晩成型の人であったのかもしれませんね。

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乞食若殿

毛利元就は安芸の国人領主・毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生しました。幼名は松寿丸。これは黒田官兵衛の子供、黒田長政と同じというマジック。(あんまり関係ない)

毛利家の先祖は朝廷や鎌倉幕府に仕えた政治官僚で、軍学者でもあった大江広元です。大江氏は源氏平氏にも負けず劣らぬ名門なのですが、その一派である安芸毛利家は室町時代には衰退して、安芸の小領主という立場にまで落ちぶれていました。しかも毛利家は当主の夭折や急死が相次いでいたため重臣達が強権を振るい、横領や恣意的政治が横行するなど毛利家家中は大変な事になっていたのです。

因みに元就の祖父・豊元、父・弘元、長兄・興元ら全員が20代~30代で夭折しています。この若死にの連鎖により、家臣の中には毛利家が呪われていると思う者達がいたようです。

さて明応9年に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲り、幼い元就は父に連れられて多治比猿掛城に移り住みました。翌、文亀元年には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年に、父・弘元が隠居してから逃げるように飲むようになった酒が原因による酒毒が原因で死去。

元就はそのまま多治比猿掛城に住んでいましたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまいます。この境遇から元就は「乞食若殿」と貶されていたといいます。いやはや、あの謀神にもこのような過去があったとは驚きですね

この困窮した生活を支えたのが養母であり、父の継室であった杉大方で、元就はこの杉大方の影響を受けて育っていく事になるのです。

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毛利家ノコト

さて尼子家、大内家と来まして今回からは同じく中国地方の大名家である。毛利家について逸話などをご紹介していきましょうか。幾度となく色々な所で名前が出て来ましたが、毛利家自体についてはまだ語ってない事が沢山ありますからね。

戦国時代の毛利家と一口に行っても色々な武将が数多くいますが、一番有名なのはやはり毛利元就ではないでしょうか。かの人こそ、小さな国人の次男として生まれながら、権謀術数を駆使して勢力を拡大し、一代で中国地方を制覇するまでのし上がった人物です。

その傑出した戦略・謀略から戦国時代最高の智将であり、『謀神』とも呼ばれてお茶の間で親しまれている毛利元就ですが、その一方で愛妻家であり熱心な教育パパでもあった一面を持っています。特に有名なのは息子達に家族の結束をくどくどしく訴えた有名な三子教訓状ですが、他にも息子や孫達に送った手紙が沢山残っており、筆まめで心配性な一面も持っていたようです。

そしてその一方でかなり健康に気を使っていたようで、特にお酒は一切飲まなかったとか。これは父と兄を酒毒で無くした事から来ているようです。

そんな色々な顔を持つ毛利元就の逸話などを次からはご紹介していきますね。

 

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厳島での出来事

所で陶晴賢は昔、陶隆房と名乗っていた事は以前にも少し説明しましたね。毛利との戦い、厳島合戦の時彼は剃髪して、名を晴賢から全薑(ぜんきょう)に改めていたそうです。今回は先にもさらっと書いた厳島合戦の時の説明をしましょう。

毛利軍の夜討ちに虚を衝かれて混乱し、総崩れとなってしまった陶晴賢の大軍。一部は踏みとどまって奮戦防衛するも、厳島は狭すぎて大軍の利が発揮できないだけではなく、大人数があだになって槍すら振るえないという有様でした。

少数の毛利軍に何故か押し負けていく陶軍。晴賢は必死に兵士達を鼓舞するも、まず武器さえ振るえないのだからどうしようもありません。兵士達の多くは武器を捨て、そして大将すら捨てて逃げていきました。しかし晴賢はまだ諦めません。彼にはまだ数多くの精鋭達がいるのです。

「集え!三千の精鋭達よ!」

「500くらいしか残っていません」

なん、だと・・・・?

しかしそこは選び抜かれた精鋭達。側近たちは大変面倒な事にここで討ち死にすると喚き始めた晴賢を逃がすため、肘をつかんで引いていきました。そして残る者達は大将を逃がすために踏みとどまって戦い続け、その多くが討たれていく事になったのでした・・・。

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暴風の中の奇襲

厳島の戦いでは、天候までもが毛利軍に味方していました。戦が始まるも、暴風雨が吹き荒れました。これにより陶軍は奇襲、襲撃は無いと油断していました。

そこにやってきた毛利軍による奇襲です。暴風雨に紛れ、密かに厳島に上陸していた毛利軍3000が厳島の狭い平地に固まっていた陶軍を攻撃。 毛利軍が暴風雨を突破してまで襲撃してくるなどとは夢にも思わなかった陶軍は、突然の襲撃によってたちまち指揮系統を崩壊させて潰走しました。この時晴賢自身も危険に晒されたため、本陣を捨てて逃走しています。晴賢は厳島を脱出して再起を図ろうとしましたが、脱出用の船は既に兵達によって乗り逃げされるか、毛利軍に味方した村上水軍の手によって沈められてしまっていました。いくつもの要因が重なって晴賢は厳島の戦いで敗北しましたが、その一番の原因は毛利軍を甘く見ており、事前に入ってきた情報を鵜呑みにして翻弄されてしまった事だと思われます。

さて観念した晴賢は、大江浦にて自刃。享年35歳。

介錯は忠臣だった伊香賀隆正が務め、その後隆正は毛利軍と差し違えて戦死しました。 晴賢の首は、草履取りだった乙若という少年が岩場に隠したが、毛利軍によって捕らえられたために、隠し場所は程なく判明しました。西国一の侍大将、陶晴賢のあっけない最期でした。

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厳島の戦い

さて有名な厳島の戦いが開始されました。陶晴賢自身も厳島に上陸し、この時岩国付近を出発した時の船団の規模はなんと500艘。兵の数は2万とも3万とも伝えられています。どちらにしろかなりの戦力を投入していますね。

陶軍は厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡に本陣を置いて宮尾城を包囲、攻撃を開始しました。しかしこの時晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず、数日間を置いています。これは易での悪日を避けたためとも、毛利方の桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われています。だけどこの攻撃を遅らせた事が、晴賢の敗因の一つとも言われています。

迎え撃つ毛利軍も主力を厳島の対岸に位置する、草津城に集結させました。この時の毛利軍の兵数は4千から5千程度。この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に陶軍を誘い込んで、身動きの取りにくい状況を作り出そうとしました。この作戦は成功し、数で勝る陶軍は動きが取れなくなっていきます。

元就は同時に海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、厳島に接近、晴賢が厳島から脱出するのを阻止するため伊予の村上武吉・村上通康ら伊予水軍にも援軍を求めました。しかし伊予水軍はなかなか現れません・・・・これには元就も一時援軍を諦めますが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し、毛利軍に加わったとされています。

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大内義隆様のご趣味

さて今回は・・・色々と問題になっている実際大問題に発展した大内義隆のその趣味について説明しましょう。

戦国時代では衆道が一般的でした。しかし大内義隆の衆道好みはやや常軌を逸脱していたというか・・・・以下は、義隆と交わった、もしくは交わった疑いのある人物達の羅列です。

陶義清・陶晴賢(兄弟)・毛利隆元・小早川隆景(兄弟)・相良武任・冷泉隆豊・清ノ四郎・安富源内・その他諸々・・・・。 因みに一時期には、山口から陶晴賢の住む富田若山まで(片道35キロ)6時間かけて馬で往復していたとか・・・。

毛利元就の長男・毛利隆元に至っては、本来人質という立場にもかかわらず賓客のような扱いをしたことで(どんだけ気に入られたんだ)、家臣達から不信感を抱かれる原因の一つにもなったようです。しかしその隆元は人質時代に父親の足手まといになると自害しようとした時には陶晴賢が駆け付けたとか言われているからきっと男色好みの容姿だったのでは

因みにこの男色好みにはあのフランシスコ・ザビエルが激怒したほど。ヤバい海外にまで

大寧寺の変の原因も、嘗ての寵童であった陶晴賢もこの頃には寵愛を失っており、相良武任や冷泉隆豊など文治派の美人官僚達が寵愛を獲るようになっていた事に対する不満が爆発したからだとも・・・つまりこの謀反の原因は痴情のもつれ但し男だ

まぁ何にせよ入れ込み過ぎるのは良くないね!という大内さんちのお話でした☆

この話を掲載した事を少し後悔している

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