そして運命の変が起きる

政治を顧みなくなった当主に当然ながら家臣達の不満は募り、遂に大内家に、大内義隆に運命の時が来てしまいます。

天文20年、1551年の8月の末。義隆と険悪な関係にあった武断派の陶隆房が遂に謀反の兵を挙げました。このクーデターは重臣であった内藤興盛も黙認し、義隆を救援することはなかったといいます。知らぬ内に、これほどまでに家臣らの心は義隆から離れていたのです。

義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしますが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこで立て籠もりました。この時に義隆に従っていた重臣の冷泉隆豊が目覚ましい奮戦をしますが、所詮は多勢に無勢。最後は義隆はこの隆豊の介錯で自害しますた。享年45歳。

辞世の句は

討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観

と伝わっています。

その後、義隆の実子の大内義尊も9月2日に陶軍に捕らえられて殺害されました。この義隆・義尊の死により周防大内氏は事実上滅亡しました。またこの時、周防に滞在していた左大臣三条公頼をはじめとする多くの公家達も、この謀反に巻き込まれ殺害されたと言います。特に義隆の側室であったおさいの方の父・大宮伊治はこれまでの事もあって真っ先に殺害されたと言われています。

此処に、西の京を築いた大内家は滅んだのでした。この戦こそ、後の世で大寧寺の変と呼ばれる戦です。

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進むクーデターへの布石

溺愛していた養子・大内晴持が死んでしまった事により、戦嫌いになって政治への関心を薄くしていった大内義隆。しかしこの後実子が生まれるので晴持が生きていたらどうなっていたか

その翌年、1543年に大内軍は再び備後へと進出しましたが、この時の大内軍の戦は今までの大内軍らしからぬ消極的な戦いとなっていたようです。そしてこの後、戦に消極的になったまま、杉原理興を追い落とす1550年までは地味に尼子との小競り合いが続いていきます。

この間、家臣の陶晴賢が義隆に不満を募らせてクーデターの準備を進めていきます。晴賢のクーデターには本当に色々な理由があるようですが、当主である義隆が戦にも政治にも関心を見せず引きこもっていき、重用されていった文治派の相良武任らと武断派の陶晴賢達の対立が激しくなっていった事や、元々酷かった色好みもますます悪化していった上にその事で家中の雰囲気も悪くなっていったなど、色々な要因が重なっていったようです。

その上、陶晴賢のクーデター用意の傍ら、一方で安芸の毛利元就も大内家からの独立計画を練っていました。(この人本当に抜け目ないな)

しかし既に政治への興味を失っていた義隆自身にはこれらの事は知る由もなかったのでした・・・。

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尼子攻めと負った心の傷

さて大内義隆の敵は目下尼子勢のみとなりました。当時尼子家は嫡男・政久を失って家中が揉めていた頃です。

さてまずは1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、大内家と毛利家は尼子家を退けました。翌年には武田信実を滅ぼして安芸の支配権を確立しました。この頃はまだ問題ではなかったのですが・・・・。

問題の1542年。この年、謀聖と謳われた尼子経久が逝去した事で、尼子家臣が大内家に離反してきました。嘉隆はこれを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征します。これが大内家の命運を分ける事となりました。

義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考えていました。そのため、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻しました。 だけれど尼子軍の新宮党の予想以上の抵抗と、長期にわたる派兵によって領主達の不満は募っており、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなって遠征は失敗に終わります。その上この時養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死した事で、義隆は心に深い傷を負ったのかますます戦嫌いとなって、以後は戦場に出向くことはなくなったといいます。

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大友家との和睦

冠位を貰う事に成功した後の天文6年、1537年に大内義隆は室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるましたが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれてしまい、領国経営に専念するためにこれを断念しました。大内義隆は色々と京好みな逸話が色々と残っていますので、この上洛断念は惜しいものであったのかもしれません。そしてここからじわじわと名が挙がっていく尼子家・・・後のフラグにも見える

さて少弐家と共に北九州の覇権をかけて戦っていた大友家。此方との戦いには重臣の陶輿房が赴いていたようですが、此方も少弐家との戦い同じく大内家が破れる事になります。そして義隆は此方には婚姻政策で和睦しようとします。

この婚姻政策は見事成功し、1538年に先ほど名が出た12代将軍・足利義晴の仲介で大友家と大内家の和睦が成功します。嘉隆はこの時、姉を大友義鑑に出しました。そしてこの姉から生まれた甥が、後の大友宗麟と大内義長となるのです・・・。

この二人が後に大友家と大内家を巻き込んで(というと語弊がありますが)色々やってしまう事を考えるとこの婚姻政策はどうだったのか、と思ってしまいますがともあれ少弐家を滅ぼして大友家とも和睦した大内家、次なる敵は尼子です。

この全てが後の毛利の躍進につながっているとかこわい

元就「なんのことやら」

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太宰大弐任官

さて前回任官を認められなかった大内義隆ですが、義隆はその後も任官を諦めてはいませんでした。

天文3年、1534年の4月の、義隆は2000貫文という大金を後奈良天皇即位式の費用として献金します。この返礼のというようにして4月のうちに義隆は従四位下に叙されています。

しかし大内義隆が欲しいのは太宰大弐の冠位です。

天文4年、1535年には、大内家は少弐氏の勢力を筑前から追い出すことにほぼ成功したとみられますが、これを受けて筑前支配の名分を強化するためにか、同天文4年12月22日に内裏の造営費の名目で100貫文を献金し、同時に大宰大弐就任を求めてました。天皇は12月27日にこれを一旦認めるます。が、翌28日に翻意。任官問題は棚上げになってしまいました。

結局、朝廷より翌天文5年5月(あるいは6月?)に正式に大宰大弐任官を認め、同時に即位礼の資金を準備したことを賞して剣を賜ることとして使者を下向させています。

どうやら潔癖すぎる後奈良天皇が気まぐれで一旦取り消したようで、この任官取消には大内義隆に特に非はなく、その後の朝廷との関係も問題なかったようです。因みになぜこんなに任官にこだわったかというと、少弐家を滅ぼす大義名分を欲しがった模様。要するに、

「少弐氏の官職は大宰少弐だから、大宰大弐の大内氏のほうが偉いんだよ!」

という感じのようなものですね。昔は冠位や大義名分が重要である事が伺えます。

 

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少弐氏討伐

大内義隆は父の後を継いだ後、まずは勢力の拡大を目指します。

そして享禄3年、1530年からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後の大友氏や筑前の少弐氏らと争いまじめます。幼い頃からのもり役でもあった家臣の杉興連や陶興房らに軍を預け、少弐氏攻めを開始します。その一方では肥前の松浦氏を従属させて、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握しました。しかし杉興連に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫してしまうのでした。この戦いは以前にも説明した、「田手畷の戦い」ですね。そうあの鍋島さんちの人達が龍造寺家のピンチに熊になって暴れたさっそうと現れたあの戦いです。

さてその次の戦は天文元年、1532年の事。今度は少弐氏が大友氏と結んで侵攻してきました。まともに戦っても勝ち目は薄いと義隆は学んでいたのか、この戦いで義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけます。今度の戦は買収作戦です。搦め手で勝利をつかもうと奮戦しましたが、この時は朝廷への働き掛けは失敗したのか官職は得られないままでした。

しかしその後は調略により少弐家より龍造寺家を離反させるなどして少弐家の弱体化を図っています。

 

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後継者・大内義隆

さて京で色々あったり外国で色々あったりしながらも大内家を盛り立てていった大内義興も最後には病に勝てなかったのか病死する事となります。享年52歳、その後継者は嫡男の大内義隆、当時彼は22歳でした。

室町以降の大内氏は家督争いの兄弟喧嘩が頻発していて当主が死ぬと内乱が恒例行事となっていたのですが、この義興から義隆への場合は例外といわんばかりに、家督継承はスムーズに行われました。しかし逆に、この穏便な政権委譲が義隆の文人大名化に拍車を掛けることになってしまうのです・・・。

さてここで大内義隆と言う人物を少しご紹介しましょう。義隆は大内義興と正室・内藤弘矩の娘の間に嫡男として生まれました。しかし生まれる直前に父・義興が明応の政変で将軍を追われた10代将軍義稙を奉じて上洛しています。この後、義興は長年京の都に逗留する事になってしまうので、義隆は長年父を知らず育っていってしまいます。

さて父親が戻ってきたのは義隆が10歳になった時。しかし長年父の薫陶を知らず、ぬくぬくと育ってしまった義隆は文弱な当主になってしまいます。

義興が京の都に逗留してしまった事で尼子家や毛利家が後に台頭してきてしまうのですが、何より息子の養育に自身が関われなかったのが大きいですね。人の家に一生懸命になって我が家を犠牲にしてしまった所は、何だか現代に少し通じる者があるかもしれません。

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将軍夜討ち騒動

さて当時の京は荒れ放題で・・・、という話を書きましたが、ここで当時の京がどうだったかよくわかる話をご紹介しましょう。

永正14年2月4日戌の刻(午後8時前後)、京三条の将軍足利義稙邸に夜討ちがあるとの風聞があり、世上騒動となり、驚き慌てる事もっての外であった。紫宸殿から三条御所の方を見ると、夜討ちを警戒するため三条周辺に掲げられた松明が、まるで晴れた夜空の星のように数多く輝いていた。陣下の衆が少々馳せ参じ、外様番衆(奉公衆)も、将軍家直属であるため三条御所に馳せ参じた等、云々。

しかし夜討ちの事はあくまで風聞であり、実否が解らず騒ぎも収まらなかった所、将軍に従っていた神祗伯の白川雅業が参内してその子細を申し上げるには、唐門役所において盗人の騒ぎがあり、その騒ぎを聞いた者たちが夜討ちだと勘違いしてしまったとの事である。全く奇異の事だと云々。

あとで聞いた所によると、細川京兆(高国)が具足を着たまま各所に礼参したと云々。全く稀代の事である。また、聞く所によると京の児女たちの間では、この日に天魔の祝儀があると言われていたそうだ。さてさて、洛中の騒動はその為だろうか?

二水記より抜粋したのもですが、この時の京の情勢の不安定さを、よく表している事件ですね。ほんの少しの事にも大騒ぎしている事からその様子が窺い知れます。

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大内義輿の家督相続

さて時は流れて戦国時代がやって来ます。戦国時代の大内家の当主は大内義輿、明応3年秋、父である政弘が病気により(一説には中風)隠居したため、家督を譲られて大内氏の第30代当主となりました。その際に当時の将軍・足利義稙より偏諱を受けて義興と名乗りました。

その後は北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、父の代の領土であった周防、長門、豊前、筑前に加え、安芸、石見の守護職を兼ねるほかに肥前の一部にも勢力を広げるなど戦国時代における大内家の全盛期を作り上げました。明応5年には大友氏の内紛に介入して、自らが擁立する大友親実を大友家の後継者にしようとするなどして大友家の家督相続にも介入にしていますが、これは失敗に終わっています。その後は九州探題の渋川尹繁を救援するという名目で肥前に出兵して少弐家を攻め、北九州に勢力を拡大しました。

しかし少弐家の3男・資元が文亀元年に挙兵し、その後は大友親治と連合して大内領に侵攻する気配を示します。しかしこの争いは大事にはならずに終わります。明応の政変で京都を追われた前将軍・足利義稙は山口にて大内家に保護されていました。この足利義稙の仲介により少弐資元と和睦し、大内家は北九州の勢力を保ちます。

しかしこう見ると、戦国の前から北九州では少弐家、大友家と大内家は北九州の覇権を争ってきた因縁ある間柄なのですね。歴史を見ていくと色々な「つながり」があって面白いですね。

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西の京

時の大内家の当主、大内政弘は応仁の乱には西軍側として参戦して、その武勇を西国の地に轟かせた武将と言った事は前回にも説明しましたね。しかし政弘はただの武力一辺倒の猛将と言うだけではなく、政治に明るく、文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築いた人物です。

日明貿易は博多商人と連携し、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ遣明船を派遣するなど内政にも力を入れており、また対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れました。これらで得た莫大な利益は、軍費などに充てられたといいます。また、応仁の乱後は領国経営にも意を注ぎ、社会秩序の確立に努めました。軍事から内政、自国統治にまで力を入れていたのですね。

その一方で政弘は和歌・連歌を好み、家中にも勧奨したともあります。一条兼良、三条西実隆ら多くの歌人・連歌師と交流すし、当時荒廃していた京から公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招いて、文化の興隆に尽力しました。後に山口が西の京と呼ばれる由来はここからも来ています。そして文明12年には宗祇を招き、連歌会を行なっています。

しかし後の世で大内家が京好みが行き過ぎて衰退していく事も考えると、これらも決して良い影響では無かったとも見れますね・・・あくまで趣味であり、戦国大名を捨てて打ち込めば家が滅ぶのでしょうが・・・。

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