西牟田家周と六五郎橋2

水神様のご託宣をうけた神主はこう答えました。

「水神様は、川に杭打つことに怒っておられます。鎮めるには人柱をたてるしかないでしょう」

ここで六佐衛門は決断を迫られます。人柱という犠牲は避けたいが、もし川が反乱すれば工事は続ける事が出来なくなってしまいます。そうすれば迫ってくる大友軍から城を守る事は不可能でしょう。そうすれば更なる被害が出てしまう事でしょう。

主、民百姓、その家族までの人命を救うため、六佐衛門は自らが犠牲となって人柱になる事を決意しました。そして六佐衛門は祈りを捧げ、白装束に身を包み川にその身を捧げました。そしてその六佐衛門の後を、捨て子だった所を拾われて郎党となっていた五平も追うように川にその身を沈めたようです。

その翌日、大雨はやみ川の増水も免れました。奇跡的に工事は間に合い流石に道雪も城島城を落とす事が出来ず、別の方面に転身していきました。六佐衛門と五平はその命でもってこの土地を救ったのです。

家周と村人達は感謝を込めて祠を建て、樽橋六佐衛門と五平の名を合わせて「六吾さん」と呼んでお祭りをしてその話を語り継がれました。それは江戸期から現在まで守り続けられ、昭和の時代にそこに出来た大橋には住民の希望により「六五郎橋」と名付けられました。

名を変え姿を変え、今もその土地を六吾さんと六五郎橋は守り続けています。

 

西牟田家周と六五郎橋1

では今回は沖田畷のその後、龍造寺領内で起こったとある事についての逸話を一つ。

西牟田家周という武将がいました。その家周が支配していた地域、筑後には国城島村という村がありました。家周は当時、龍造寺配下にありました。ですが沖田畷の戦いで龍造寺家の当主・龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に討ち取られて、龍造寺家は明日を知れぬ状況に陥っています。

そんな中、豊後の大友氏の侵攻の報がきました。当主が討ち取られた今を好機と見たのでしょう。これに対抗すべく、家周はすぐさま行動を開始します。

家周は大友軍の来襲に備えて、城島の地の利を生かした城を築き上げる事を庄屋の樽橋六佐衛門に命じました。総出で死に物狂いになって工事をし始めました。筑後川の石垣は敵の這い登りを防ぐため、水面から垂直に組み、川に面しない三方には四重五重にも壕を掘りました。そして一番外にある壕の外に、水草や堆肥を埋めたりなどして足を取られやすいように工夫までなされていました。

ここで一番の敵は、時間でした。

工事は終わらないのに大友軍は進んでくる、しかもその将は音に聞こえた名将・立花道雪だと言うではありませんか。そこに加えて梅雨の末期だった事もあって大雨が続き、筑後川の水位が増していきます。増水してしまえば石垣も組めず、壕も掘れません。

六佐衛門は神主を伴い、神主を伴って水辺に祭っていた水神の祠でご託宣を仰ぎました。そこでは思いもよらぬご託宣がありました。