備中高松攻めと清水宗治の切腹

さて、秀吉が信長の訃報を隠し通して毛利と講和を結んでいた時の毛利の様子はといいますと。 秀吉の出した条件は領土割譲と高松城の城主・清水宗治の切腹の2つでした。ですが毛利家では「清水宗治を死なせては末代までの恥」とこれを簡単に受諾はできませんでした。

そこで官兵衛は直接宗治の説得を試みます。官兵衛の説得を受けた宗治は「自分の切腹で城内の兵と毛利家が助かるならば安いもの」と言い切り、自ら毛利家に「城と共に命運を共にしたい」と講和の条件を飲むようにと手紙を認めます。

この事を秀吉はとても感謝し(秀吉自身も時間をかけたくなかったのでしょう)、宗治に感謝の酒などを贈っています。宗治はその酒で最後の宴を城内で開きました。

そして清水宗治と兄弟、2名の部下は水没した城の前に船を浮かべ、ひとさし舞を舞った後に切腹。その姿を秀吉は高く評価し、「日の本一の武辺」と賛辞を贈ったと言われています。その後秀吉は彼の子を大名に取り立てようとしましたが、毛利の家臣である事を選んでそれを断ったそうです。何とも清々しい、戦国の世に相応しい一族ですね。

清水宗治の辞世の句は

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の名を高松の 苔に残して

彼はその名と忠義を、正に高松の地に残したのです。

が、その後毛利家はとんでもない情報を知って揺らぎます。それについては、また別の記事で。


2014年2月16日 備中高松攻めと清水宗治の切腹 はコメントを受け付けていません。 黒田官兵衛