実在した三年寝太郎

大内義隆と共に大寧寺の変で討ち死した冷泉隆豊、実はこの彼の縁者にあの有名な人物のモデルがいるのです。

さて時代は遥か前の1537年、武田信玄は初陣で平賀成頼を討ち取りその名を上げました。この時打ち取られた成頼の嫡子に、平賀清恒という人物がいます。彼は家を再興することができず、姉の嫁ぎ先であった冷泉隆豊を頼り周防に落ち延びて 大内氏に仕えたといわれています。

その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。 3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。次に彼はこの資金を開拓に使うことにしました。

開拓により彼は厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき、灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。このような偉業をなした彼を村人は讃え、祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

そう、あの有名な三年寝太郎のモデルになった人物なのです。

その記録が残っていないために三年間寝て過ごしたとされたり、当時発見されていない筈の佐渡金山で稼いだなど言われているので信憑性は低いようですが、寝太郎堰は確かに実在しています。

さてその後、彼は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われていますが詳細は定かではありません。しかしこう見るとお家再興にこそ失敗したものの、中々アグレッシブな人生を生き抜いた人物なのではないでしょうか。

陶氏との対立

天文20年、ご存知大寧寺の変により、大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反によって打倒され、養子の大内義長が大内家の当主として担ぎ上げられます。この件、特に当主の交代は元就も同意見だったようで、前々から晴賢と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握しました。そして謀反がなった後、晴賢は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるなど、この時点では元就と晴賢はまだ好意的な関係にあったようです。

元就はこれを足がかりに勢力を拡大、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめました。その後、1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退しているなどしているところをみると、着実にその勢力と力は増していっています。これには晴賢も驚異を抱き、支配権の返上を要求しました。

当然ながら元就はこれを拒否。両者は徐々に関係が悪化していきます。

そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻しました。晴賢の出陣依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたのですが、晴賢への不信感を募らせていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵が取り止めに。隆元は人質時代に大内義長に手厚く饗されていたので、晴賢の謀反に不満を抱いていたのでしょう。(まぁ人質時代に隆元と元就の窮地を救ったのも晴賢なんですが・・・)

これにより二方の関係は最悪化し、後の争いにつながっていきます。

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粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)後

いかがでしょうか。読んでみて皆さんはどう思いましたか?私は

長いよ!!

の一言でしたね。(苦笑

いや、いい事を言っているのはわかるのですが、何とも同じことの繰り返しというかそれが冗長というかなんなのか。貰った隆景も隆景で読んでいて何を思ったのか激しく気になりますね。良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ、と言いたくなってきてしまいます。出した相手が父親であること、内容が自分の過去語りが入っていて(自分の教訓からと言ったらそれまでですが)くどくどしいということ、結局のところお前は我慢しなさいよという説教くさい事を考えると、隆景も面倒くさかったのではと邪推してしまいます。(苦笑

しかし話が長い、同じことの繰り返し、説教、ということを踏まえると、本当に息子を心配していて、注意したかったのではとも感じられます。もしかしたら謀神・毛利元就は心配性であったのかもしれませんね。大事なことだから二度言った、のでしょうか?(まぁ二度どころじゃない気もしますが)

因みに「良いことを言っているのはわかるので、要点だけまとめて箇条書きにしてくれよ」と書きましたが、この手紙実は本当に長いので前半部の重要な所だけ書き出したものです。

書き出してこれか、とは言わないで…

 

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)中

お次は文章を読みやすく、訳したものです。

又四郎(隆景)へ 元就より

児玉に聞いて大体のことは分かった。お前が言っていることはよく分かるよ。

今更言うようなことでもないし、前々から言ってることだけど、堪忍していれば物事は悪いようには絶対に進まない。だから我慢しなさい。

お父さんなんか井上の者達に、興元が亡くなってから40年間も、家中の皆がまるで主人に仕えるように井上一族の言いなりになっているのを我慢してきたんだ。

その悔しさは言うに堪えないと思ってほしい。

40年の間ずっと耐えてきたことは、今更言う必要もないだろう。

ただ、私も年を取り、このまま無念を晴らさずに死ぬのはなんとも我慢できないと思ったからこそ、この度の処罰を下したんだ。

でもね、どんな事も考えなしに適当にする事は絶対にしてはいけないよ。

第一、その家の主人が家臣を粛清することは手足を斬るような事であって、してはいけない事の中で一番悪いことなんだ。やってはいけない事としてこれよりひどいことはないぞ。

井上一族の事はああでもしないと家を保つことができなかったから、どうしても避けては通れない道だったからこそやったんだよ。

お前の言い分は、大体はわかっている。

でもお前に関して言えば親類や家臣の方達はいずれもお前によく従ってくれているじゃないか。

それに皆、他の家の者達とは比べ物にのないぐらいよく働くと聞いているよ。家臣に大切なのはそういうことなんだよ。

そういう事だから、些細な事でとむっとして腹ただしく言うのは絶対にしてはいけない。

皆の意見に合わない事や道理に適っていない事を言ってしまうような事は、一番避けなければならない事だ。

今までのところ、御家中の皆さんはお前を誉めていると聞いているよ。

お前を悪いようには少しも言っていないようなのだから、お前が万一家中の事で道理に反するような事を言ったりすることは

もってのほかだから、そういう間違ったことがないように見下した言い方をしないように、よくよく気をつけなさいね。

粛清の件、息子隆景へ。(長いversion)前

では今回から元就が家臣粛清に対して息子、隆景に送った文章を紹介していきます。まずは本文でご覧下さい。

 

又四へ もと就

又児蔵所へみつみつにて承る儀、其の申し聞かせ候ほどに承知候、

相かまへて々、いうやうの事候共、御かんにん候はては曲あるましく候々、

我々などは、井上之者共に、興元死去以来40年に及び、悉く皆彼の者共を主人に仕え候しかるをこらへ候、

その内の口惜しさなどは、いうばかりとおぼしめし候哉、

既40年の事候は間、長々敷かんにん、申すもおろかに候々、

唯今はや我々も年より候程、もし々かやうの無念を散らし候はで、いか躰にも罷り成し候しかばと存知候てこそ、此の時分存立たる事にて候へ、

およその事共に聊爾なる儀共仕べく事有るまじき候、

第一、其の家の主人内之者をうしない候事は、手足をきるにてこそ候へば、わるき事の最上にて候、よからぬ儀是に過ぎたる事にて候へ共、

此の家の事はかやうに仕候はては叶わぬことにて候程に、のがれぬ事にてこそ仕候へ、

およその事共にては候はず候、

そこもとの事は、御親類御被官中いつれも々ならいよく御入候にては

みな々馳走比類なき由承りおよび候の間、かんえう此の事にて候、

然る處少の事共気持ちたて共めされ候て、何かと仰せられ候はん事は、努々あるまじき候、

おかしけなる事共、仰しめされ候ては、ことの外めされさけたる事にてあるへく候、

唯今迄は御家中衆も其の方をばほめ申すやうにこそ聞きおよび候へ、

あしざまには聊かも申されぬように候の處、萬一おかしき事共仰しめされ候はば、

以て外に各曲無く見さけ申されるべく候の条、よくよく御心え候へく候々

 

粛清の件、息子隆景へ。(短いversion)

積年の恨みに加え、家中で専横、横領を繰り返す井上一派を粛清した毛利元就。彼はそのすぐ後に、小早川家の跡を継いだ三男・小早川隆景に対してこのような手紙を送っています。今回はその手紙の要所部分だけを、短くまとめて抜き出したものをご紹介します。

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。これ以上悪いことはないでしょう。一般的に家臣を殺すということは、その主人に器量がないために起こったことであり、器量のある主人は家臣を殺すような真似はしないものです。このことをよくよく、心得て置いてください。」

これが井上一派粛清に関してのことだということは隆景もは充分に知っていたでしょう。父・元就は自身の苦悩と自戒を篭めて、この手紙を息子に当てて書いたのです。折しもこの時、小早川家を継いだ隆景は家臣の統率がうまくいかず、粛清も視野に入れていたといいます。そんな息子を思って、「父親のようなことはしてくれるな、自分のようにはなるな」と手紙を書いたのかもしれませんね。

このような逸話を見る限りでは、何だか三男の隆景が一番元就に似ている気がします。嫡男、隆元は容姿も母親にのようですし、だったら間の元春と五龍は・・・うーん、吉川の血筋ですかね。

ともあれ次回は、「この手紙をさらに」詳しく見ていくことにしましょう。元就の手紙の冗長さが理解できるでしょう。

 

井上一派粛清

毛利家の渦中に、井上元兼という人物がいました。彼ら井上一族は元は毛利家と対立していましたが、元就の父の弘元により家臣に組み込まれ、それ以後は毛利家によく尽くして働いてきました。元兼も優秀な人物であり、特にその才覚を主に財政面において活躍したと言われています。また、元就の家督相続を井上就在・井上元盛・井上元貞・井上元吉ら他の井上一族とともに支持するなど、元就の補佐を努めて大いに功績をあげていました。

しかし財政面への明るさから横領を始め、家中への強い発言力から専横を始めるようになってしまいます。そして元就もまた、決断を下しました。

1550年7月13日に、井上元兼とその一族は殺害され、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させられました。これは二度とこのようなことが起きないために、毛利家内での統率力を強化しました。

しかしこの際には、井上一族を全てが殺されたわけではありません。前回にの井上光俊のように忠義を尽くしていた者や、井上一族の長老である光兼など、恩義のある者達は助命しています。この際に処断されたのは、主だった30名のみのようです。

因みに元就自身がこの誅伐に関して、「井上には幼いころに所領を横取りされた」などと手紙に残っているので、積もり積もっていた恨みもここで噴出したものと見て間違いないでしょう。しかしその一方で、家臣を処断することに強い苦悩も感じていたようです。

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毛利両川体制

さて吉川元春の話が続きましたが父親である毛利元就に話を戻しましょう。策謀を重ねて、次男・元春に吉川家を継がせることに成功した元就。その一方で小早川家の相続問題で、当主・小早川繁平がまだ幼いこと、盲目であったことを理由に繁平を出家させるなどして三男・隆景に小早川家を継がせるように取り計らいます。

これにより元就は小早川氏の水軍を手に入れ、また以後に「毛利両川体制」と呼ばれる毛利家の補佐体制を確立、そして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏両家の勢力を取り込んだことによって、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしたのでした。さあ、毛利家はこれからどんどんとその勢いを増していきます。

しかし天文18年2月、元春と隆景を伴い山口へ下向しました。この時元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くまで伸びて、吉田に帰国したのは5月になってからでした。この頃の山口大内家は、主君の大内義隆の戦嫌いが加速し、陶晴賢ら武断派と文治派の対立が激しくなっていましたので、元就も病床の床にありながらも大内家の行く末を懸念していたのかもしれません・・・・。

因みにこの時元就を看病した井上光俊は元就への献身的な看病を感謝され、嫡男・隆元からお礼の書状を貰っています。この事が彼の身を助ける結果となるのは、また後日です。

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腹痛の妙薬?

さてこの流れで吉川元春の面白いというか、変わった逸話も一つご紹介しましょうか。吉川元春は一節には黒田官兵衛との会食後、無理をして鮭を食べて亡くなった、というのが通説ですが、それよりもっと昔の話。元春が体調を壊した時の話です。これには不思議な薬が出てきます。

ある時、元春は腹痛を覚えてそのまま病にかかってしましました。今でこそ場合に応じて色々な薬が用意されますが、この時代は特効薬というものはありません。

この時、元春はあるものを腹痛に効く薬として父親である毛利元就にないかと尋ねていたようです。

それはなんとカワウソ!現代日本では既に絶滅してしまっているカワウソですが、この時代にはそれなりに生息していたようです。しかしカワウソが腹痛の薬とは・・・

因みに元就の手元には肝心のカワウソがなく、元就は嫡男である隆元に

「元春が腹痛でカワウソを欲しがっていますがこちらにはありません。もし隆元が持っていたら元春に送ってあげてください」

と連絡し、隆元が

「少し古くなっていますがカワウソの塩漬けを持っています。すぐに元春に届けましょう」

となって元春にカワウソを送ったようです。その後、元春の病状は回復したというからカワウソは腹痛に効いたのでしょうか?しかしカワウソが薬とは・・・牛肉を薬食い、と言ったようなものなのでしょうかね・・・?

 

 

吉川元春と陶晴賢

さて吉川興経の話にも、吉川元春の舅になった熊谷信直が出てきましたね。婚姻政策により元春の味方になってくれたのです。そんな元春ですが、実は意外な人物とつながりがあります。実は元春は陶晴賢と義兄弟の契りを交わしているのです。今回はその義兄弟のいきさつについて解説していくことにしましょう。

さてそれは毛利父子が山口に来ていた時のことです。大内家家臣の相良武任が大内義隆に提案したのが始まりでした。

「義隆様、毛利元就は元々は尼子に仕えていました。毛利元就は優秀な人材で、稀有な人物です。なので再び元就が尼子になびかないようにしておいた方がよいでしょう。そこでご相談なのですが嫡子の隆元に関してですが、内藤興盛の娘なら義隆様に血筋も近いので養女に迎えて隆元と婚姻契約を結びましょう。そして次男の元春は元就と並び立つ良将の器だと評判です。ですのでこちらはの陶隆房(晴賢)と元春を義兄弟にしてしまいましょう。隆房も勇猛さでは西国一、あの二人に先陣を任せればかの蒙古の堅陣だとて大内家の敵ではございません!」

これを聞き入れた義隆は早速元就を呼んでこれを伝えると、元就もこの提案を大いに喜びました。要するに大内の毛利つなぎとめ政策の一環として元春と晴賢は義兄弟になったのです。なんともこれは・・・・義兄弟とはもっとロマンがあるものかと思っていましたが、現実的な理由があったのですね。

元春と晴賢、義兄弟にさせられる、という話でした。