賤ヶ岳の戦い・発端

さて、陰謀渦巻いた清州会議から秀吉は信長の後継者としての地位を固めつつあります。今回は秀吉と織田家の重鎮・柴田勝家の戦いをばご紹介。因みに清州会議の頃、秀吉が仲人となり勝家と信長の妹、お市の方が結婚したのは有名なお話。

その柴田勝家と秀吉の戦いと言えば、賤ヶ岳の戦い。その賤ヶ岳の戦いへと繋がっていく騒動が起こります。

清洲会議の後、勝家は、織田家の中で台頭して発言力の大きくなっていく秀吉を討つため、滝川一益・織田信孝・佐久間盛政らに檄を飛ばして反羽柴秀吉体勢を敷きます。ここで動いたのが織田信孝。清州会議でも名前の出てきた、信長の三男ですね。信長の後継者に決まった三法師は安土城へ入る予定になっていましたが、叔父に当たる信孝が三法師を預かったまま、岐阜城から出さなかったのが今回の発端です。

これを見るに、もしかしたら賤ヶ岳の戦いの発端は秀吉でも勝家でもなく、信孝だったのかもしれませんね。秀吉の仲人の話がありましたが、勝家と市を結婚させたのは信孝という説もあります。信孝としては秀吉が織田家を仕切っていくのが面白くなく、対抗勢力として勝家を担ぎあげた形になったのでしょう。柴田勝家の性格からして自分が織田家を取り仕切ろうという野心はなさそうですし、そう考える方が自然かもしれません。

そう考えると、この戦いの一番の犠牲者は勝家自身だったかもしれないと、何とも皮肉な話になってしまします。では、この争いはどうなっていくのか。それは次回お話しましょう。

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ちょいと拝借

今回は久しぶりに官兵衛のお話をしましょうか。これは秀吉の中国大返しの時の逸話です。

 

中国大返しの際、官兵衛は小早川隆景らに「旗を20ほどお貸し下され」と申し出ました。この申し出を毛利、小早川方は不審に思いましたが、何度も頼みこまれた事と隆景自身が「まぁいいんじゃね」とOKを出した事で貸し出す事になりました。

その後、秀吉は宇喜多秀家の家老達に備前の片上まで見送りして貰いましたが、そこでも官兵衛は彼らから旗10本ばかりを借り受けました。

そして兵庫あたりにまで到達すると、毛利宇喜多から借り受けたこの旗達を秀吉の陣先に立てました。これは敵方から物見が出た時、そして合戦の時に毛利宇喜多の両家が秀吉に付いて先手として上がってきたように見せかけて、敵の士気を削ぎ味方の士気を増す、という策略だったのです。

これを見た秀吉は大喜び!

「若き者達よああいう事を見て後学にせよ!合戦というものは謀で勝つものである!敵を斬り、首を取るなどというのはわずかなる匹夫の働きで、誰にでも出来る事だ。官兵衛の今の謀は凡人の及ぶところではない。あのような手立てを行う事こそ誠の大切と言うべきものぞ!」

と激しく褒め称えました。

こうして官兵衛の策略と秀吉の言葉に士気を上げながら、明智光秀の軍勢を破る事になったのです。子供騙しなようでいて、実際にこんな所でこんな事を思いつくのは、官兵衛は流石と言う他はありません。勿論、それを察して皆を鼓舞した秀吉もまた、策略家と言わざるを得ませんけどね。

 

「そうだ、切腹しよう」

さて、今回も残念ながら我らが官兵衛の出番はありません。(きっぱり)

今回は戦国天下人3トップメンツ(かどうかは知らんが)の一人、徳川家康が本能寺の時どんな状態だったかのお話です。

この時、家康は信長に招かれて京都観光中でした。そんな中突然起こった本能寺の変。次なる標的は信長の同盟相手家康であろうと情報が飛び込むが、この時家康はろくな戦闘準備もできてない有様でした。

家康「そうだ、切腹しよう」

諦めが早すぎるぞ後の天下人。とはいえこの時家康は絶望的な事態の中にあり、とても生きて三河まで帰れる状態にはありませんでした。ですが配下武将達が必死に止め、その後家康は有名な神君伊賀越えにて無事に三河まで帰り着きました。

処で家康には幼少期からの付き合いの武将、鳥居元忠がいます。彼は家康の京都散策に着いて来ていましたが途中で病により供から外れていました。本能寺を知った元忠は仰天。家康の安否は絶望的、自分は病により駆けつけられない。元忠は考えました。

元忠「そうだ、切腹しよう」

流石幼馴染というべきか、判断がそっくりです。元忠からすれば死してなおお供せん、という意気込みだったのでしょうが周りに止められ、その後無事に家康と合流でき、二人は互いの無事を喜びました。

この鳥居元忠、家康の側近として色々な活躍をした武将だけでなく、かの有名な関ヶ原にて華々しい最期を遂げているのですが、それはまた別のお話で。

 

 

 

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「羽」『柴』【秀】吉

さて、今回は前回の話で名前が出た三名の武将。丹羽長秀、柴田勝家、そして明智光秀についてのお話をしましょうか。この三名、織田家の重鎮という以外にも実は意外な繋がりがあるのです。

その繋がりである人物は、羽柴秀吉その人です。

この”羽柴秀吉”という名前と、この三人の名前を良く見比べてみましょう。何かに気づきましたか?そうです、同じ文字が名前に共通しているのですね。もちろんこれは、偶然ではありません。

その昔、羽柴秀吉は木下藤吉郎という名前でした。ですがある日藤吉郎は改名をしようと考えます。もしかしたら「木の下」では芽が出ないと考えたのかもしれませんね。そこで当時の織田家の有力家臣である三名から一文字ずつ拝命して丹羽長秀の「羽」、柴田勝家の「柴」、明智光秀の「秀」を貰って羽柴秀吉と名乗る事にしたのです。名前を拝命する事は珍しくないのですが、三文字も貰うところに秀吉の人間性が見え隠れするような気がします。図々しいっていうか…

しかし秀吉の子供たちはこう見ると、秀頼しかり、秀康しかり、光秀の「秀」の字を受け継いでいる事になりますね。(実は吉継という隠し子疑惑のある武将もいますが…)

それにどういう意味があったのかははかり知れませんが、武将の名前はこう見ていくと楽しいものもありますので、皆さんも名前の由来や文字を注意して見ていってみてください。もしかすると思わぬ発見があるかもしれませんよ。

 

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清州会議・裏会議

では前回の清州会議で織田家の世継ぎは三歳の幼児に決まってしまいましたが、それも秀吉の根回しあっての事です。あの清州会議の裏で何があったのか、ご説明しましょう。

実はこの時、立場からいえば秀吉の立場というものは、勝家、長秀に比べればそう大したものではないのです。寧ろ信孝を世継ぎとして推す勝家の意見が通る事の方が本来自然なものでありました。ですがそれを覆したのが勝家同じく織田家の重鎮、長秀です。

長秀は本能寺で秀吉が誰よりも早く信長の敵を討った事を推し進め、逆に勝家が早く明智討伐の山崎の戦いに駆けつけなかった事を咎めたのです。この時勝家自身は雪に城が閉ざされて駆けつける事が遅れたという理由があったのですが、そこを突かれては勝家も反論ができなくなったのでしょう。

そしてこの長秀の意見こそ、秀吉、そして官兵衛の根回しあってこそのものだったのです。

実は長秀自身、本能寺の混乱時に早まって信長の甥である織田信澄を明智と通じていたとして殺害しています。この信澄は妻が光秀の娘だったので疑われたのですが、冤罪であり、長秀らが早まって行った事だったのでしょう。この部分をある意味脅迫の材料としてつかわれました。長秀は勝家が本能寺に遅れたことを責め、秀吉側に立つことでこの件を不問にしようとしたのでしょう。こうして実際の権力は秀吉に回っていくのですから、やるせないものでもあります。これもまた、明智光秀の起こした本能寺の余波事件とも言えるものですね。

 

清州会議

今回は再び歴史を追いつつ、清州会議に場を移しましょう。

清州会議は信長の死後、織田家の後継者を決めるべく行われた会議の事です。ここで後継者として名が挙がったのが、信長の三男である織田信孝と信長の嫡男である織田信忠の嫡男(ああややこし)・三法師です。

ですがこの三法師、血流だけを見れば織田家の嫡流、即ち織田家の世継ぎとして相応しい立場ではありますがこの時なんとまだ三歳児。幼児じゃねーか!

もちろんこれは秀吉の策略。まだ幼い三法師を世継ぎに仕立て上げ、自分が織田家の実権を握ろうという企みだったのでしょう。ですがこんな下心スッケスケの状況にも拘らず、織田家の重鎮である柴田勝家や丹羽長秀らは秀吉の要求を飲む事に承諾せざるを得ませんでした。事前に根回しをやっていた秀吉の有利に会議は進められてしまったのです。まさにご利用が計画的

その後、三法師は一応織田家を継ぐ事は出来たものの、織田家の実権は実質的に秀吉に握られて、あっちいきこっちいきさせられ、最後は関ヶ原の後改易を喰らってお終いという最後…最後まで振り回され、利用された終わり方でした。

では次回はこの清州会議の背後に何があったのかを、ご紹介しましょう。秀吉の根回しと、本能寺の余波を喰らった丹羽長秀、柴田勝家の二方、織田家重鎮の二人。その背後に何があったのか。

 

 

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織田信忠と松姫のラブレター

今回は前回言ったように、織田信長の嫡男・織田信忠と、かの有名な武田信玄の娘松姫についてのエピソードをご紹介しましょう。

信忠と松姫は敵同士でしたが、織田家と武田家が同盟を結んだ時に同盟の証として夫婦になりました。ですが時は戦国、二人は形だけの夫婦であり、実際に一緒に暮らしていた訳ではありません。今でいう婚約者に近かった模様です。それでも二人は何通もの手紙のやり取りをして、お互いに思いを伝えあっていたようです。

ですが信玄の徳川領侵攻によりにより二つの家の同盟は破棄され、信玄死後に織田家は武田家に軍を進めます。しかもその時の総大将は信忠。松姫は何を思いながらその知らせを聞いたのでしょう。こうして戦国最強を謳われた武田家は終わりを迎えます。

その後、松姫は何とか生き延び北条家に保護されました。そこに届いたのは信忠からの手紙。松姫が生き延びている事を知った信忠は「毛利征伐が終わり次第、迎えに行きたい」という手紙を送ってきたのです。信忠は嫡男こそ産まれていましたが、まだ正室は持っていませんでした。終わっていた二人の恋は、お互いの中で続いていたのです。

ここで終われば、良かったのでしょう。ご存じこの直後、信忠は本能寺にて明智軍の襲撃を受けて命を落としました。この知らせを、松姫はまた、どんな思いで聞いたのでしょうね。その後は松姫は尼になり、一族や家臣らの菩提を弔い生きたようです。

戦国の世は、当然とはいえ辛い人生を生きた女性が多く、物悲しいですね。次回はまた歴史を追って、清州会議に移りましょう。では。

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秀吉の天下へと

さて、天王山で明智光秀を討った羽柴秀吉は、急速に力をつけていく事になります。これまでは織田信長の配下の一人でしかなかった秀吉ですが、信長の敵討ちをした人物、という事実はかなりの影響力を持っていたのです。

信長の嫡男、織田信忠はすでに本能寺の戦いの時に父親同じく明智軍相手に奮戦して二条城で籠城した後に、討ち死にしています。この信忠にもとあるエピソードがあるのですが、それは次回またご紹介する事にして…。

信長の息子は三人、この内二男の信雄は養子に出されているので残るは三男信孝ですが、嫡男・信忠には嫡男・三法師がいました。この事が織田家の跡継ぎ論争に面倒な火種を生み出す事になっていくのです…。大体秀吉のせいで

この時官兵衛が何をしてたかはしらない分かっていませんが、頭の回る勘兵衛の事ですから主君秀吉のためにその頭脳をあくどい方向にフルスロットルしていた事でしょう。

しかし跡継ぎは必要ですが、いたらいたで大変なのが戦国時代ですね。特に身内での骨肉の争いなどは見ていて悲しいものがあります。そんな世の中でも家族仲良く頑張ったり力を合わせている兄弟もいる事はいるのですが、そのこともまた別の記事でご紹介しましょう。(これ毎回言ってるな…)

 

 

天王山の故事

はい、今回は本能寺の後の秀吉VS光秀の戦い、山崎の戦いについてご紹介しましょう。

とはいえこの戦いで秀吉側が勝利したのは有名すぎるお話。ではこの戦いの拠点地ともなった「天王山」という場所。これは今でも故事となって残っていますので、その故事の意味と由来についての説明をしましょうか。

 

拠点地として重要な天王山。そこを制した者は戦で勝者となることから、応仁の戦乱でも重要な戦局地として重要視されてきていました。これは「天下分け目の天王山」とも呼ばれて、山崎の戦いでもこの場を制した者が勝者となるだろうと予測されていました。そして実際にこの「天王山」を制した秀吉がこの場だけでなく、歴史の勝者となっていくのです。

この「天王山」は今でもスポーツ司会などで重要な局面で使われることが多いので、かなり知られている故事の一つですね。野球中継などを注意してみていると、結構聞く事が多いので、聞いたことがない方はよく注意してみてみてください。

このように「天王山」を始めとして、戦国時代で生まれた有名な故事は結構あるのです。このブログでも折に触れいくつか紹介していこうと思いますので、今後も楽しみつつ、参考にしていってくださいね。忘れなければ紹介しますので

本能寺を知った毛利家家中

前回の記事で語った清水宗治による見事な切腹が行われた日の夕刻、その情報は毛利家に届きました。「織田信長、本能寺にて明智光秀の謀反により切腹」。この情報に毛利家の人々、特に毛利家の二男である吉川元春は大激怒しました。秀吉にまんまと謀られ、大事な家臣を切腹にまで追い込んでしまったからです。

すぐさま講和を破り追撃すべし、と唱える元春を抑えたのは毛利家三男小早川隆景その人。「墨が乾くよりも早く約束を反故にしては不義理」と主張し、結果として毛利家は追撃を行う事はありませんでした。この辺は官兵衛の読み通りになりましたね。

この時隆景が追撃を避けたのは秀吉への義理であったのか、それとも秀吉に恩を売るためであったのかは定かではありません。ですがその後、秀吉はこの時の恩を深く感謝して隆景を五大老に取り立てるなど厚遇しています。その一方、この件で秀吉に深く恨みを抱いたのか、元春の方は早々に隠居。これは秀吉に会いたくなかったから、とも言われていますので、よほど嫌悪していたのかもしれません。

そんな毛利両川、吉川小早川ですが、黒田官兵衛とは長い友人付き合いがあり、中々縁深い人達でもあります。その件につきましてはまたその逸話の紹介の折にご説明いたしましょう。さて一方山崎の地で睨みあう秀吉と光秀、勝利者となるのは一体どちらか?

歴史見りゃわかるとか言わないよ!