備中高松攻めと清水宗治の切腹

さて、秀吉が信長の訃報を隠し通して毛利と講和を結んでいた時の毛利の様子はといいますと。 秀吉の出した条件は領土割譲と高松城の城主・清水宗治の切腹の2つでした。ですが毛利家では「清水宗治を死なせては末代までの恥」とこれを簡単に受諾はできませんでした。

そこで官兵衛は直接宗治の説得を試みます。官兵衛の説得を受けた宗治は「自分の切腹で城内の兵と毛利家が助かるならば安いもの」と言い切り、自ら毛利家に「城と共に命運を共にしたい」と講和の条件を飲むようにと手紙を認めます。

この事を秀吉はとても感謝し(秀吉自身も時間をかけたくなかったのでしょう)、宗治に感謝の酒などを贈っています。宗治はその酒で最後の宴を城内で開きました。

そして清水宗治と兄弟、2名の部下は水没した城の前に船を浮かべ、ひとさし舞を舞った後に切腹。その姿を秀吉は高く評価し、「日の本一の武辺」と賛辞を贈ったと言われています。その後秀吉は彼の子を大名に取り立てようとしましたが、毛利の家臣である事を選んでそれを断ったそうです。何とも清々しい、戦国の世に相応しい一族ですね。

清水宗治の辞世の句は

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の名を高松の 苔に残して

彼はその名と忠義を、正に高松の地に残したのです。

が、その後毛利家はとんでもない情報を知って揺らぎます。それについては、また別の記事で。

飛脚健脚・中国大返し

さて有名な中国大返しですが、実際にどのくらいのスピードであったのか。

秀吉、官兵衛のいる備中高松から摂津尼崎まで約5日で到着したとされています。その間の距離はなんと約210kmにも及ぶ長距離。1日30~40kmほど行軍した事になります。新幹線も車も無い時代、徒歩での移動が主でしたのでこの速度は尋常ではありません。

一説には戦国時代の馬は人が乗ると徒歩より遅かったともありますのであしからず。

さて、毛利軍が撤退しだしたので秀吉も急いで撤退したい所ですが、秀吉の不安は毛利の追撃。ですがそこは我らが官兵衛「毛利の追撃は堀を崩さねば行えず、堀を崩されたら起こる濁流により追撃は出来ない。また、毛利の小早川隆景は信頼できる人物なので追撃はない」と秀吉を説得。それに安心した秀吉は官兵衛に殿を任せ、凄まじいスピードで退却を行い始めます。

そして姫路の城につくなり城の金庫から有り金すべてを兵士に分け与え、兵の士気上げを行ったそうです。もしかしたらこれも官兵衛の入れ知恵によるパフォーマンスだったのかもしれませんね。

こうして見事秀吉は明智光秀を打倒して信長の後継者たる地位を固めていくのですが、その話はまた別の機会に致しましょう。

 

毛利攻め後に、最大のうっかり

秀吉と官兵衛の毛利攻めで一番有名なのが高松城の水攻めでしょう。

迅速な毛利攻略を迫られる秀吉に官兵衛が地の利を生かしたこの献策をしたと言われています。折しも起こった長雨で高松城は水に沈み、連絡を取るのにも船が必要なほど進水した様子。ここで秀吉は毛利方に講和を申し込みます。講和は一度決裂するも、秀吉の後方からは信長、光秀の援軍が控えている事に毛利方は悩みます。

が、ここで秀吉方にはとんでもない連絡が届きます。そう、本能寺の変です。

明智光秀の謀反により、秀吉の主君織田信長は自刃。秀吉は地面を転がって嘆き悲しみますが、そんな秀吉に官兵衛は一言

「やりましたね!上様が死んだなら殿に天下が回って来ますよ!」

官兵衛ほんと空気読めない…

とにかく秀吉は気を取り直したのかどうかは知りませんが、その日のうちに兵をまとめ上げ、信長の死を隠し通した上で毛利方と講和を結びました。そして有名な中国大返しにて信長の弔い合戦をやりとげ、官兵衛の言うとおり天下人になっていくのですが…この時の空気の読めない発言がよほど秀吉には気にかかったのか、その後は官兵衛は秀吉に冷遇されていく事になります。

正に歴史的うっかり。天才なのにどこか抜けている官兵衛は何だか親しみやすくもありますね。

鳥取の渇え殺し

今回のお話は羽柴秀吉、黒田官兵衛らによる鳥取城攻めのお話ですが、このお話、実際に合った物ながら大変後味の悪い話でもあります。読む人間を選ぶかと思われますので、凄惨なお話が苦手な方はスルー推奨です。

 

天正9年(1581年)6月。前の年に鳥取城主である山名豊国は織田軍に降伏。ですが鳥取城内兵は毛利への従属を主張して主と対立。果てに山名豊国を追放して3月に毛利より新たな主、吉川経家を城主に迎え入れました。

因幡国の鳥取城へ秀吉は6月に再び出兵、これを第二次鳥取城攻めと呼びます。この軍には官兵衛も加わっていました。当時鳥取城内では不作により兵糧が乏しく、加えて秀吉らによる鉄壁の鳥取城包囲網により兵站線を遮断。細川藤孝らが率いる水軍により海からも完全に包囲され、鳥取城は少ない兵糧で籠城を余儀なくされます。その上で近隣の村を襲い、鳥取城に多くの人間が逃げ込むように仕向けました。そう、兵糧攻めです。

鳥取城内は餓え苦しむ人間が溢れかえり、凄惨極まりない状況になり、わずか三カ月で降伏を余儀なくされました。これは鳥取の渇え殺し(かつえごろし)と呼ばれています。鳥取城では悲惨な事に死肉を奪い合うような事態まで追い込まれただけでなく、生き残った半数の人間もまた、降伏後に食事をした所胃痙攣で死んでしまいました。戦国時代でも有数の悲惨な戦の一つです。

 

さて、毛利攻めで手柄を上げていく官兵衛と秀吉ですが、思いもよらない事態が引き起こされます。それこそ次回の話、うっかり官兵衛人生最大のうっかりの話です。

 

荒木村重。それってどうよ?

さて信長に反旗を翻した荒木村重ですが、その後どうなったのか。

如何なる事情かは知りませんが(理由は諸説ありますが)、信長に謀反を起こした荒木村重。しかし部下の高山右近らは戦が始まるや否やすぐさま信長に寝返った上に、主力として戦う予定の村上水軍は織田家渾身の鉄甲船にボッコボコにされるというこの先嫌な予感しかしない余り幸先の良くないスタートで謀反は始まります。

その後、何故か村重はわずかな手勢と共に有岡城から逃亡。理由についてはこれまた不明ですが、籠城戦の最中に大将だけで逃げるとは何があったのか…。その後、一年ほどで有岡城は降伏。残っていた家臣達も信長との約定を破って逃げ出したので、荒木村重の一族郎党は処刑される事になりました。しかし当の本人や彼の息子は生きていて、なんか…もう…

その後彼もまた毛利領地に落ちのび、村重という名を捨てて僧になりました。

その後、彼は信長の死後は堺に行き、商人の娘と結婚して今度は茶の道などに人生を見出したようです。千利休とも交流があり、利休七哲の一人に数えられています。彼の人生には、いったい何があったのでしょうね。

さて、タイトルの意味ですが…彼の名前は僧になった後「道糞」となりました。自分で道端の糞を自嘲して名乗っていたそうですが、本当に何があったのか…。

それについては彼にしか分かりません。人生というものは、本人にしか分からないものですね。

小寺政職の痛恨のうっかりミス

さて、小寺政職。官兵衛の元主君になる人物です。今回はこの人物について少し触れていきましょうか。

小寺政職は赤松家の家臣小寺則職の子として生まれた人物です。主君赤松義村が浦上村宗に討たれると、彼の子を伴い細川家を頼ります。後に浦上村宗を討ち果たして赤松家を見事復興しますが、官兵衛の祖父や父親を登用していき勢力を付け過ぎた事から逆に赤松家と対立する事になっていきます。戦国時代は物悲しいものです。

後に官兵衛に姪と結婚させて姓を名乗らせ、官兵衛の最初の主君になります。最初は織田家と対立していましたが、官兵衛の説得もあって織田家に降伏します。ですがその後、小寺政職は痛恨のうっかりミスを行います。

荒木村重の謀反に追従して別所長治らと共に織田信長から離反してしまいます。この際にも官兵衛からの説得があったようですが、今度は耳を貸そうとはしませんでした。その後、羽柴秀吉らに攻撃されて今度は敵対していた毛利家を頼って逃亡。この際に官兵衛は名を黒田に改め、織田家の一員として迎え入れられています。

その後毛利家を頼るも、小寺政職は毛利家に受け入れられる事はなく、その最後は備後の地で寂しいものであったと伝えられています。歴史にもしはありませんが、再び官兵衛の説得に耳を貸していたら、どうなっていたでしょうね。

さてお次は荒木村重の事についても触れていきましょうか。

 

黒田官兵衛、黒田長政

さて、官兵衛が幽閉されていた荒木村重の元より救出されたと前の記事で書きましたね。このころから官兵衛は「黒田官兵衛」を名乗り始めます。元々主君の小寺家より頂いた名字である「小寺官兵衛」を名乗っていましたが、この時小寺家もまた織田信長によって討伐されていたためです。この際、嘗ての主君小寺政職は毛利家を頼って落ちのびていますが、結果的に官兵衛は織田家に残った形になったのですね。彼のその後は、また別の記事で。

ともあれ官兵衛は姓を黒田に改め、その後信長から1万石を与えられて正式な織田家の家臣となって迎え入れられました。こんな風に戦国時代は良く名前が変わります。

因みに松寿丸も無事元服して、長政と名前を改めます。この長政の長の字ですが、織田信長から一文字賜った、という説があります。織田信長は当時影響力の強い人物でしたので、浅井長政や森長可らも長の字を信長より賜って名前を付けています。(浅井長政は元は浅井賢政という名前でした)

このように成人してからも戦国時代では名前が良く変わりますので、難しくて面白いですね。

では次回は官兵衛の元主君小寺政職がどのような人物で、その後どうなったかを少し書いていきたいので、よろしくお願いします。

親子の対面と別れ

前回の記事にも書いたとおり、官兵衛は一年後に幽閉先より救い出されます。この時官兵衛は酷い有様で、足が不自由になっていたそうです。そうまでしても官兵衛は織田家への忠義を貫き通していました。

救い出された官兵衛を見て織田信長は喜びましたが、同時にかなりの罪悪感も覚えたようです。官兵衛が裏切ったものと信じて、人質の松寿丸を処刑してしまったからです。ですがそこで「実は…」と秀吉が現れます。

竹中半兵衛の機転により、松寿丸は処刑を免れていました。それを知った信長は安堵しながらも、「また半兵衛めにしてやられたか」と笑ったそうです。

さて、感動の親子の対面が行われました。幽閉された官兵衛も息子は見せしめに処刑されたであろうと思っていたので、喜びもひとしおでした。ましてや自らの身の危険も顧みずに松寿丸を匿ってくれた半兵衛に、官兵衛は大変感謝していました。

ですが、悲しい事に既に半兵衛はこの世の人ではなくなっていました。

元々病を患っていた半兵衛は、官兵衛の救出前に亡くなっていました。「死ぬならば戦場で」と病気の身を押して出陣し、陣中で亡くなったそうです。

松寿丸がなければ後の黒田家も無かった話ですが、息子を助けて貰った官兵衛は恩人にお礼も言えないままというのが、物語のようで美しく悲しい話ですね。

それ以後官兵衛は半兵衛の分まで秀吉に仕えていくのですが、それはまた別のお話です。

人質・松寿丸

さて父親がうっかり捕まってしまった事から生命のピンチになった息子・松寿丸。

彼を救いだしたのは、竹中半兵衛その人でした。

 

おそらく半兵衛は、官兵衛が裏切る筈がないと信じていたのでしょうか。彼は官兵衛の息子の松寿丸を助け出し、石田三成父親の石田正継の元に匿ってもらったのです。官兵衛の幽閉期間は一年間にも及ぶ長いものであったので、その間隠し通したという事はあの織田信長を朝向きとおしたという事、正直驚きを隠せません。

因みに一説には病死した子供の首を信長に送って欺いたという説も…。

いやはや、竹中半兵衛という人物はイメージに反して豪胆な人物ですね。何が彼をそこまでさせたのか。官兵衛との友情か、はたまた幼い松寿丸を可哀想に思ったか、それとも信長への挑戦だったのか…半兵衛の真意は、分かりません。

そして匿われた松寿丸は、そこで半兵衛の息子の左京らと仲良くなります。これが後の竹中の家を救う事になる事は、果たして半兵衛の眼は見抜いていたのか。

松寿丸は匿われた先で半兵衛に具足初めの祝いを取り行われ、その際に 半兵衛自身から祝いの羽織を贈られたという逸話もあります。幽閉され匿われと忙しい松寿丸ですが、この時の松寿丸にとっては半兵衛は命の恩人であり、父親代わりだったのかもしれませんね。

さて幽閉された官兵衛が助け出されるまで一年。時代は進みます。

うっかりネゴシエーター黒田官兵衛

さて謀反を起こした荒木村重の元に空気を読まずに単身向かった黒田官兵衛ですが、謀反を思いとどまるよう説得するも逆に捕まって幽閉されてしまいます。ネゴシエーターの意味ねぇ

そんな官兵衛が捕まってしまったという事態は多大なる方向に影響を及ぼします。

何せ官兵衛が捕まった事を知っているのは捕らえた荒木方と、捕らえられた官兵衛のみ。

その他の面から見れば「謀反を起こした荒木村重の元に向かったっきり、黒田官兵衛は帰ってこない」です。こりゃ言い訳しがたい現状。隠居して余生を過ごしていた官兵衛の父親も復帰して対応に大騒ぎ。この際に黒田家家臣の一人後藤又兵衛は伯父が荒木方についてしまい、身の置き所が無くなり、黒田家を出る羽目になるというとばっちりを受けています。

しかし最大のとばっちりを受けたのは織田に人質として送られている息子の松寿丸です。信長は官兵衛の事を聞くと激怒して、人質の松寿丸を殺すように命令をしました。黒田家としても阻止したい所ですが、今の現状からすると家事態がピンチなので申し開きも出来ない状態。当の官兵衛は裏切ってはいないものの監禁中。これはどうしようもならない。

さてこの松寿丸ですが、彼が後に黒田長政となるにはこんな所で死んでいる筈がありません。彼が如何にしてこの危機を潜り抜けたかは、次回紹介しましょう。