今鎮西の暗殺・裏話

さて吉川家を乗っ取るためにと言うと聞こえは悪いですが、前当主であった吉川興経を謀略でもって打ち取ることに成功した毛利元就。

興経は武勇の誉れ高い武人ではあったものの、その性格には難が有り、日和見で動くことが多くあちらこちらと場合によって着く味方を決める人物でありました。その上譜代の家臣たちを冷遇し、自身の気に入った新参者たちを寵愛していたのでついには家臣からも見放され、元就の息子吉川元春を新当主に迎え入れられて強制的に隠居させられただけでなく、最期は元就の策謀の元戦国の世に散りました。

その最期は前回までに語ってきたと同じく、部下たちに裏切られ、騙し討ちで打ち取られてしまいました。裏切りを重ねてきた人物には、それ相応の最期しか待ってなかったというとどこか物悲しいものがあります。

これはその興経の最期の最後の話です。興経は打ち取られ、首を取られました。しかし興経が普段から可愛がっていた白い犬が飛び出してきて、主の首を咥えて逃げたのです。主の首を抱えて逃げた犬はその後、逃げおおせた先でその首の傍を離れず、果に餓死をして亡くなりました。今もその犬と、首塚が残っています。

裏切り続け、裏切られた吉川興経。彼にもまた、最期を共にしてくれる存在が確かにいたのです。

今鎮西の暗殺・後

それでも興経は簡単には諦めません。潰された刃の刀を振り回しながら寄せてくる数十人の敵を刀で殴り倒していきます。しかし多勢に無勢、後ろから腰を矢で射られてしまいました。

ここで明石という侍女が矢を抜こうとしたのを見た興経は「後ろに抜くんじゃない。前へ押し抜け」と命じました。 明石が矢をつかみ前へ押すと、矢先が腹を突き破ったので自ら鏃をつかみ前へ引き抜きました。なんか明石さんも十分に思い切りがいいと思うのは私だけでしょうか?

「お前はうちの家来どもより頼もしいな。お前のことはあの世でも忘れないぞ」

興経は明石をそう褒めると、またも戦い続けて天野隆重までたどり着きました。彼を組み伏せたものの周辺の討手に引き剥がされ、ついに首を挙げられました。 嫡男の千法師も殺され、藤原南家吉川氏はここに滅亡します。

一方、先に言った豊島内蔵丞も暗殺されるところを何とか毛利家より脱出。毛利の警戒線を突破して帰還したのだが、彼は主の最期には間に合いませんでした。豊島は腹を十文字に掻き切り、その場に介錯する者がいなかったので自ら喉を押し切って自害したといいます。

しかし壮絶な最後ですね。途中の発言といい、何だか中国の覇王・項羽を思い起こします。ともあれ吉川興経を排除し、その後は吉川家は元就の次男・元春によって統治されていくのでした。

今鎮西の暗殺・中

しかし迎え撃とうとした興経、ある事に気がつきます。興経の側近で、近隣にその名の聞こえた勇将豊島内蔵丞興信が見当たりません。

「そういえば元就が『興経殿の持ってる三原っていう名刀見せて欲しいな!大事なものだから豊島くんに持ってこさせてね!』と言っていたから昨日元就の所へ使いにやったんだった

要は元就に図られたのです。恐らく豊島はもう殺されてることでしょう。しかしだからといって臆する興経ではありません。討手を自慢の弓で迎え撃とうとしました、が、なんと弓の弦が全部切られているではありませんか。実はこちらも既に元就に抱き込まれた部下が、事前に弓を使えなくしていたのでした。

「これほど運つきざれば、われ今、人手にかかることあらじ、天、われを亡ぼせり、人を恨むべからず」

こんなについていないなんて、さては天が俺を滅ぼそうとしているのだろう、そう大笑いして興経は右手に三尺五寸の青江の刀、左手に二尺八寸の盛家の刀を振りかざします。ここで大笑いできるあたり、性格に多少難有りといえどさすがは豪傑です。

興経は広縁の端に立って、討手が押し寄せてくるのを迎え打とうとしました。しかし元就も念には念を入れたのか、ここまで行けば執念とばかりに刀は全て刃が潰されていました。

今鎮西の暗殺・前

毛利元就の次男・吉川元春が吉川家に養子にいった経緯は話しましたね。今回はそれにより当主の座を追われた前吉川当主・吉川興経の話です。この話もさりげに元就の策謀が光ります。

安芸北部から石見南部に勢力を張った吉川興経は、「鬼吉川」と称された曽祖父吉川経基の再来とまで言われた剛勇無双の武人でした。特にその強弓は伝説の鎮西八郎為朝に匹敵するとして「今鎮西」と呼ばれていた程であったといいます。

しかしその一方で武将としては無節操で、大内・尼子の間で日和見、離反を繰り返していました。戦国の地方豪族には珍しくない話なのですが、親戚の毛利元就と違って興経の場合には深慮遠謀というものはありませんでした。また新参の部下を可愛がる一方で父親の代からの家臣たちは退けるなどをしていたこともあり、その場次第の無節操さはついに家臣からも見放され、吉川家は元就に乗っ取られてしまいます。

元就は次男の元春を養子に入れた後、興経は本拠から引き離して隠居させます。しかし興経はこれを不満に思ったのか、何やら画策を始めました。このままでは元春を安心して吉川へはやれません。

殺すしかない、元就はそう決断しました。

ついに興経暗殺命令が下ります。しかし興経は無双。元就は慎重に策を練ります。

天文19年9月27日未明、熊谷信直(元春の舅です)と天野隆重の手勢300騎が興経の館を急襲!興経はこれを迎え撃ちます。

元就の手紙

吉川夫妻の子供への手紙を紹介したところで、父親の元就から息子たちへ宛てた手紙もご紹介しましょう。

元就の三本の矢の逸話の元ともなった、有名な「三子教訓状」の続きです。

元就は手紙は読んだら返してね派だったようですが、嫡男・隆元はこれを大事なお守りとして持っていて、大事な部分を抜き出して書いたりしていました。しかし父親から「お手紙返してよ!」と再三言われたのか詫び状と一緒に返却しました。それに対する元就の手紙がこちらです。

「去年お届けした書状を、ただいま頂戴しました。本当に私の意見をこのように真剣に考えて頂いて、大切にしていただいた事はこう言うのもなんですが、これほど嬉しい事はありません。あの書状はもう一度お届けしますので、どうかそちらに置いて下さい。あの書状に書いたように、事につけいつも、妙玖の事ばかり考えています。一人になってしまって、内外の事全て、自分一人でしなければならない状態です。隆元、元春、隆景のことは勿論、宍戸に嫁いだ娘にも、色々進言したいことが多いのですが、もう私もくたびれ果ててしまって根気も続かず、こんな時に妙玖がいてくれたらと思うばかりです。本当に語り合える相手も無く、自分の胸に語りかけているような有様です。内は母親が治め、外は父親が治めると言いますが、本当にそのとおりだと思います。余計なことばかり書いてしまいましたが、口で語れるようなことではないのでつい筆に任せて書き連ねてしまいました。大したことではありませんので、暇な時にでも読んでください。あ、それと

この書状は恥ずかしいので、読んだらなるべく早く返却してください。

亡き奥さんとの思い出を息子に語り、手紙の最後にさらに手紙を返してねと念を押すお父さん・元就のお話でした。

しかし長い

吉川夫妻の手紙・後

さて引き続き、吉川夫妻が息子・吉川広家に送った手紙の紹介です。この当時まだまだ若かった広家は現代で言えば不良というかちょっと突っ張っていたというか、当時で言えば「かぶいている」状況にありました。しかもそれだけではなく、ややわがままな性格でもあったようです。

広家は他家に養子に出ていたですが、領地が少ないと不満を漏らし、もっと広い領地を持つ家の養子に鞍替えしようとしました。しかし当たり前ながらそんなことが許されることなく毛利本家から待ったがかかり、広家はますます不満に思っていました。そんなむくれてしまったわが子へ、吉川夫妻が連名で手紙を送りました。

 

決して本家を恨んではならぬ。もし、これが承知できなければ毛利・小早川・吉川三家に対し敵心ある者の生まれ変わりであると看做す。

 

内容だけ見ると頑固親父がワガママな息子に怒っているようですが、実際にはもう少し行動を自重してくれよ、というフレーズのようなものであったそうな。

三男・広家は後に人質として秀吉のもとへ送られましたが、元春は後に頼んで返してもらい手元に置きました。手のかかる子供ほど可愛かったのかもしれません。その後、兄・元長が夭折したため、広家が吉川家を継ぐことになります。

手がかかる子供ほど可愛い、吉川夫婦のお手紙です。

吉川夫妻の手紙・前

さて夫婦仲がよく、優秀な子供たちを授かった吉川元春と妻である新庄局。そんな2人が晩年、我が子に当てた手紙が残っていますので少しご紹介しましょう。これは三男の息子・広家に宛てた手紙です。

 

武士は身だしなみをきちんとすることが大切だ。お前は気に入らないと思うが言っておく。今の流行を追いかけることは、武士の家に生まれたお前にはふさわしくないことだ。額をとにかく剃りなさい。そのうえで鬢をつければ立派に見える。

それをせずに、商人か乞食坊主か恵比須舞いのような格好をしているのは理解できない。親から見てこうすれば良いと思うことは、たとえお前が気に入らなくても、親孝行だと思って直してもらいたい。

お前は盃を目の高さ、鼻の高さまで上げて戴いていた。なるほどこれはちょっと見には粋に見えるがよろしくない。偉い人から戴いた盃は目の上まで捧げて鄭重に戴くように。

また、他人から敬礼を受けるときも目礼ではいけない。少し身を前にかがめて敬礼しなさい。

 

息子への忠告の手紙ですが、今の親が子どもに言うことと何だか似ていませんか?流行りを追いかけて不良になってきたわが子への説教というところでしょうか。口うるさいと言われそうだけど言って上げるのが親の役目、元春も人の親ですね。

元春の子作り

さて今回は前回に引き続き、吉川元春とその妻である新庄局のお話です。女性の名前は残っていないことが多いので、新庄局で統一したいと思います。

数奇な運命と打算により夫婦になった二人ですが、その夫婦仲は大変良かったといいます。毛利家の正室・妙玖夫人が産んだ男子には共通するのですが、三人とも側室を持ってなかったと言います。父親と母親がよほど仲が良かったのか、それとも生来の性格からだったのかはわかりません。二人の間には夭折してしまった子を含め、五人の子どもを授かっています。内一人は娘で、他の四人は男の子。中々に優秀な子供ぞろいだったとか・・・・。

さて下世話な話ですが、この子供たちの生まれた年と年代を見ていってみましょう。これには不思議な法則があります。

長男:元長1548年生まれ 前年に元春が妻を娶っているので結婚記念

次男:元氏1556年生まれ 前年に厳島合戦で勝利したので厳島記念

三男:広家1561年12月生まれ 同じ年の1月頃に長男の元服があったので元服記念

なんとまあ上手く出来上がったこと(笑)

大きなイベントがあるとホッとして子供を作る家庭だったのでしょうか?何はともあれ、夫婦仲が宜しくて結構ですね。

因みに家は長男が早世し、次男が養子に出ていたので三男の広家が跡を継ぎました。この経緯はまた、関ヶ原以降で説明したいと思います。

元春の嫁取り(尚、周囲への相談はナシ)・後

さて驚いたのは熊谷信直です。なんせ娘に対して縁談の申し込みが来たのですから。それも因縁ある毛利家の次男・吉川元春です。

信直「少し訪ねたいのだが、貴公の父上が我が家と戦の際に熊谷の前当主を討ち取ったことは知っておられるかな?」

元春「もちろん承知の上です。ですがご息女を妻に迎えたいのです。お願いします」

信直「・・・・その、うちの娘の噂はご存知なのだろうか・・・?」

元春「もちろん存じ上げています。その上で妻に迎えさせて頂きたいのです」

熊谷「なんと有り難い・・・・!分かった、しかし一度お父上にもお話を通しておいた方がよかろう」

こういった経緯で元春の嫁取りは成功しました。しかしこれには元就も驚いたのか、詫び状を書いて「元春は犬のような子ですみません。よろしくお願いします」と改めてお願いしています。

その後、元春の策略通りに熊谷家は毛利家とともに戦国動乱を戦いました。確執は水に流し、一度も裏切ることなく元春と吉川、毛利家に尽くしてくれました。余程嬉しかったのか信直は臨終の際に息子たちに「元春殿に尽くすように」とまで言い残しましたといいます。

そしてここからが余談。

醜女と名高い妻を元春は非常に大切にして、生涯側室を置くこともしませんでした。二人の間には何人もの子を授かり、夫婦仲もとても良かったといいます。初めこそ打算がありましたが、それ以後奥さんを大事にした辺りがとてもいい話ですね。

吉川元春の嫁取り話。打算から始まった愛もある、といったところでしょうか。

元春の嫁取り(尚、周囲への相談はナシ)・中

その頃、熊谷家でもその娘のことが大問題になっていました。熊谷信直は子煩悩でもあったとも言われていますが、この娘の行く先を心配していました。娘も年頃、そろそろ嫁にやるなり婿を取るなりしたいところですが、相手がいない。親の欲目もあるかもしれないが、器量はそこそこいい筈だ、しかし・・・・。

この娘、実はとんでもなく醜女だったのです。言ってしまえばブスだったのです。それも近隣諸国に有名だったとまで言われているのだから色々と酷すぎます。この時代の娘は同盟国を作るための存在、嫁の行き先がないとなると困った時に頼る相手ができない。いやいや、子煩悩だった信直から見れば修女と噂されて嫁にも行けない娘がどれほど可哀想だったことでしょうか。

元春が熊谷家とその娘に目をつけた最大の理由がここであったと言われています。よく直情的で戦一辺倒のような人物だと思われていますが、元春は文芸にも明るい頭の切れる人物なのです。

元春は熊谷家が抱えている問題の娘を嫁に貰ってやることで、熊谷家が恩義を感じて自分や毛利家に尽くして働いてくれるのでは、と思い立ったのです。少々打算が過ぎるかもしれませんが、ここは戦国、政略結婚などよくある事です。

こうして元春は父親の元就にも相談なしに熊谷家に単身乗り込んだのでした。