荒木村重

これからの官兵衛の事を解説する前に、荒木村重という人物を紹介します。

荒木村重は元は池田城城主、池田勝正の家臣でした。ですが後に主君を追放し、池田家の実質を握って当時敵対していた三好三人衆と手を結びます。そして織田信長率いる織田家と対立していきます。

ですが歴史は動く、1573年、今度は三好方を見限ったのか、村重は信長に接近。今日に上洛してきた信長に謁見します。当時、信長の周囲は敵だらけでした。なのでその一方である村重率いる摂津方面を平定できるのかどうかは、重要な意味を持っていました。

村重は翌年、伊丹城城主となり城名を有岡城と改め、更に摂津の豪族達を次々と平定していきました。その上で信長に従って石山合戦などにも参加して武功を次々に上げています。信長にとっても荒木村重という人物は貴重な存在であり、頼れる家臣の一人だったのでしょう。

当時の荒木村重の石高はなんと35万石。織田家でもこれほどの所領を拝領していた武将はあまりいません。信長が村重を信頼していたのが分かりますね。しかしその後、誰も予想していなかった事態が起こります。

荒木村重謀反。

1578年、突如荒木村重は信長に謀反を起こします。この事態に信長は驚き、中々事実を信じられなかったとされています。この際に村重の長男と結婚していた明智光秀の娘は、光秀に遠慮して村重が離縁して親元に帰されています。理由分かりませんが、荒木村重も覚悟の上の事だったのでしょうか。

そこに我らが黒田官兵衛が空気を読めずに説得に向かいます。さて、どうなってしまうのか。

 

官兵衛「ちょ、おま」

今回は羽柴のユニット両兵衛の、黒田官兵衛と竹中半兵衛の逸話を一つご紹介します。

官兵衛は秀吉の元でその才能を奮い、手柄を上げていきます。そして秀吉に気に入られたのか、官兵衛はある日秀吉に「いつもありがとう!官兵衛の事を弟みたいに思ってるよ!」という感じの手紙を貰い、嬉しさのあまりそれを半兵衛に見せます。

しかし半兵衛、その手紙を「こんなものあってもアンタの為にならん」と破り捨てます。

後に官兵衛は同じように、秀吉から加増の約束の手紙を貰うもいつまでたっても約束が果たして貰えず半兵衛に愚痴をこぼしますが、その際も同じように半兵衛はあっさりその手紙を破ってしまいます。

半兵衛曰く「このような約束があり、書状があるから不満を持つ。それは貴方の為にならない」とのこと。人の心は変わりやすいものであるので、信じすぎて裏切られた、という心を持つ事は危険である、という事でしょうか。官兵衛もまたこの半兵衛の言葉に納得し、己の振る舞いを恥じたようです。常に主君の事を考え、見返りを求めず尽くす事が大事という教えなのかもしれませんね。というか秀吉は実の弟にひどい仕打ちをしてるから弟とか思われない方が

さてそんな官兵衛の人生が一転する事態が引き起こされますが、それはまた後ほど。

 

 

羽柴の両兵衛

さて、黒田官兵衛と竹中半兵衛のお話ですね。

彼らは共に才知あふれる人物として、秀吉の元でその才能を奮っていきます。お互いに家族を伴っての交流もあったようですので、知者は知者を好む、と言うべきでしょうか。何にせよ2人は良い友人関係を築いていたと思われます。そんな2人はタイトル通り羽柴の「両兵衛」と呼ばれていました。

そんな半兵衛の衝撃的な逸話(間接的に官兵衛の?)の一つ。

ある日、半兵衛は皆の前で合戦の話をしていました。しかし話の途中、息子の左京(後の竹中重門)は立ち上がり、話を遮ってはいけないと思ったのか無言で部屋を退出しました。

しかし戻ってきた重門を半兵衛は「合戦話の最中に退出するとは何事か」と叱りつけました。重門は「厠に行ってまいりました」と申し開きをしたのですが、半兵衛は益々怒り狂い、

「どうしてここで小便を漏らさなかったのか!竹中の子ならば合戦の話に夢中になって漏らすくらいして見せろ!」と怒鳴りつけたのでした…。え…。

この逸話、大河ドラマでは幼少期の官兵衛の逸話として紹介されていましたね。あの話にも元となった話があるとは、驚きでしょう?

しかし現代人の感覚からすると寧ろトイレに行かなかった方がおかしいような気がしてきます

流石半兵衛、子供の躾一つとっても常人には及ぶ所ではない考えです。

では次回は官兵衛と、半兵衛の逸話を一つ紹介をしたいと思います。

竹中半兵衛という人物

さて、前回でも少し名前の出た竹中半兵衛について解説をしていきましょう。

彼は黒田官兵衛を語る上では外せない人物であり、彼もまた、希代の名軍師として官兵衛とともに羽柴秀吉に仕えていた人物です。

因みに官兵衛の名前が黒田孝高であるように、諱ですと「竹中重治」または「竹中重虎」になりますが、このブログでは通称の「竹中半兵衛」でいきます。知名度優先とかそんな

 

竹中半兵衛は織田信長の正室、濃姫の出身の美濃斎藤家に仕えていた武将です。その為、織田信長と敵対し、十面埋伏の陣などで織田家を破ってきた人物でしたが、実際には斎藤家では冷遇されていました。そして酒色に溺れる主君を諌める為に舅、弟らとわずか16人で難攻不落の稲葉山城を一日で奪い取るなど凄まじい事をやってのけた人物です。

その後、半兵衛は色々あって羽柴秀吉の配下になります。

因みに上記の城とりに加えて、剣術もかなりの腕前を持っていたとされる竹中半兵衛ですが、外見は「痩身且つ、その容貌婦人の如し」とあるので、女性的な風貌だったようですね。

女性的と言うと森蘭丸(正確には乱丸)が有名ですが、彼は実は美男子と言う記述はないので(信長の好みから察するにムキムキだったかと…)、記述までされて残っている竹中半兵衛はよほど女性的だったようかと。

そんな竹中半兵衛と黒田官兵衛の話が暫く続きます。

 

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織田家に参陣!

さて西の毛利、東の織田。どちらにつくのか…

タイトルから分かるとかいっちゃだめ

 

1575年に官兵衛は主君小寺政職とともに織田信長に謁見。その後は信長に臣従することとなります。この時、官兵衛は何を持って織田信長に着こうとしたのかは我々にも分かりません。織田信長は後世から見れば天下に最も近付いた英雄と言うべき存在でしょうが、この時代で見ればどうだったかは知りえない情報です。

偶に「何で今川義元は織田信長と戦ったの?織田信長は天下とる人なのに」という人を(本当に)見かけますが、当時では誰が天下を取るかなんて誰も知らなかったですからね。

まさか羽柴秀吉が天下人になるとか誰も信じまいて…

ここは天才軍師となる黒田官兵衛の先見の明としておきましょうか。その後、官兵衛は小寺家を離れ織田家よりになっていきます

1577年には嫡男の松寿丸を人質として織田家に差し出し、その後、羽柴秀吉が播磨国へ進駐させられると、官兵衛は姫路城をも差し出してしまいます。ですがその事が秀吉に気に入られたのか、それからは秀吉の軍師として従うようになっていきます。

そしてそこで「羽柴の仁兵衛」と呼ばれる相方人物、竹中半兵衛と出会って親交を深めていくのですが、それはまた別のお話。

 

嫡男誕生

さて光との結婚一年後に、待望の嫡男を官兵衛は授かります。

幼名・松寿丸。のちの福岡藩初代藩主となる黒田長政その人です。

四国の勇、毛利元就も幼名が松寿丸だからかぶってる

 

黒田官兵衛が希代の天才軍師であった事は言うまでもない事ですが、黒田長政もまた名武将に育っていきます。そして後の黒田家を反映させたのは黒田長政その人の判断合ってこそ、とも言えるでしょう。父親にボロクソ言われてるけど

そんな長政、松寿丸の誕生に黒田家はもとより官兵衛自身も喜びわき立った事でしょうが、実は黒田家と主家小寺家はこの時、周囲の勢力に囲まれてピンチに陥っていきます。

西に毛利、東に織田。正にピンチ。身の振り方によっては明日をも知れない状態になっていくかもしれない状況。どちらにつくかを選ばねば待っているのは滅亡ですが、つく方を選び間違ってもほろびかねないのが戦国時代。厳しい!

後にこの判断ミスで小寺政職はエライ目に会うのはなーいしょ

さてこのピンチに小寺家はどんな選択をするのか?そして黒田官兵衛こと我らがクロカンは如何にして立ちはだかっていくのか!歴史好きなら知っているでしょうがまて次回!

でもまてよ官兵衛この時小寺官兵衛だったからコカンじゃ

 

 

志摩姫の悲劇

前回の光との婚姻の話と前後しますが、今回は官兵衛の妹の婚姻話です。

ですがこの話、官兵衛の婚姻話とは違い、悲劇の結末を迎えています。

 

永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗に官兵衛の妹姫が嫁ぐ事になります。これは当時落ち目であった浦上家として、黒田家と縁組をすることによる再起を図ったものだったのでしょう。この官兵衛の妹姫が志摩姫と呼ばれています。

しかしこの婚礼当日、敵対する龍野城主・赤松政秀に攻められ、父・浦上正宗、婿・浦上清宗、そして花嫁となった官兵衛の妹、志摩姫も討ち死にするという悲劇で終幕します。女性の身でありながら志摩姫もまた武器を取り、奮戦したのでしょう。 (但しこの年代は、色々な文献により1566年とするものもあります。)

その後、官兵衛はこの赤松久秀の軍勢を永禄12(1569)年に、二度にわたって撃退して名を上げて行くのですから、悲しく複雑な話ではありますね…。

因みに室津では、この非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、雛祭りを延期するようになったそうです。 これが旧暦の八朔(8月1日)に行われる八朔の雛祭りです。

 

大河ドラマでもこの逸話が元になって、配役を変えて行われていましたね。(大河では官兵衛の幼馴染が志摩姫の役になっていました)

こんな風に歴史を少し知っておくとちょっと面白く見れますので、気になったら調べてみるのはおススメですよ。

光夫人との婚姻

さて、官兵衛と正室光夫人との結婚です。光夫人は幸円という名で親しまれてますが、光(てる)の方の表記で行きましょう。

光は官兵衛最初の主君、小寺政職の姪に当たりましたが、養女となって官兵衛に嫁ぎます。昔から結婚というのは同盟や人質の意味合いが強く、政治的な面の方が色合い濃く出ている物でした。官兵衛も有力者の娘として光と結婚します。

余談ですが織田信長は身内愛が強い人間だったのか、妹達を政治の駒として使用せず、信頼できる部下と結婚させたみたいですね。例外:お市の方

 

さて光に話を戻します。光は体格は官兵衛より大きかったようですが、才色兼備の素晴らしい女性として黒田家でも褒め称えられています。名武将の陰にはいつでも良妻あり、がつきものです。政略結婚ではあったものの官兵衛も光以外の妻は持たず、仲睦まじい夫婦だったのでしょう。

永禄10年(1567年)、官兵衛は光と祝言を挙げました。官兵衛22歳、光15歳。

この日官兵衛の父、黒田職隆が謝辞の言葉を述べた後、隠居をほのめかす言葉を加えました。周囲は息子の結婚で感極まってつい口にしたのだろうと思っていましたが、職隆は44歳の若さで早々に隠居。家督を官兵衛に譲ってその後は息子を後ろからバックアップしていきます。よき父とよき妻に支えられ、官兵衛の飛躍が始まっていきます。

その後うっかりにより多大な迷惑を被るとか言っちゃいけない

 

黒田 官兵衛?孝高?

こんにちは。本日も引き続き黒田官兵衛孝高についてです。

ですがここで少し豆知識。

「黒田官兵衛孝高ってどういうこと?どこまでが名前?」

「黒田官兵衛が名前じゃないの?」

そんな疑問がある事と思います。

 

ここで苗字、仮名、諱(いみな)についてご説明をば少し。

苗字は名字、家の名前で、姓に当たります。仮名は仮の名前、もしくは通称になります。そして諱は本来の名前、親から授かった名前です。ですが当時、本来の名前で呼ぶ事はとても失礼な事であり、主君や身内以外では許されない呼び名でした。

官兵衛の場合は「黒田」が苗字、「官兵衛」が仮名、「孝高」が諱になります。

なので黒田孝高ではなく、黒田官兵衛と呼ぶのですね。一般的に「黒田官兵衛」の方で呼ばれている事が多いので、このブログでも黒田官兵衛で行きたいと思います。

因みに苗字、仮名、通称、諱の他に前回出た「幼名」。

出家したら「法名」、キリスト教に入信したら「洗礼名」、役職で「冠位名」、ちょっと違いますが「改名」などもあり、戦国武将は名前があれこれあって覚えるのが大変です。

因みに九州のキリシタン大名、大友宗麟の宗麟は出家名ですので、キリシタン大名なら「大友ドンフランシスコ」と名乗るのが正しくなります。

漢字だと「不龍獅子虎」です。何かやんきーみたいだなおい

さて、そんな官兵衛の名が歴史に刻まれだすのは結婚数年前くらいからが多いです。

次回はお光夫人との結婚話前後を紹介しましょう。

 

 

水の如し、黒田官兵衛

こんにちは。今回からは戦国時代きってのうっかり将、黒田官兵衛とその周囲の武将達を紹介していきますね。

黒田官兵衛と言えば、今年のNHKの大河ドラマで岡田准一さんが演じる「軍師官兵衛」で爆発的に知名度が上がった武将ですが、歴史好きな方々の中では昔から人気の高い武将の一人です。

ですが、そんな彼の幼少期の逸話は残っているものがあまりありません。今でいう成人、元服してからの逸話で圧倒的に占められているんです。

そんな官兵衛は1546年11月29日、播磨の姫路にて誕生しました。

この時、雪が降っていた事から「英雄の生まれる兆しあり」「家紋繁盛の兆候」と記されてあります。ですが此方の出典は「黒田家譜」からのものであり、黒田家自身で作成した記録の中の事なので、褒めちぎられているのはやり過ぎ正直当然の事かな、と(汗

というか生まれた時に日が昇ったとか、身ごもった時に母親がお腹に太陽や月が入る夢を見たという良い兆候があるのは他の武将でも良く聞く話で戦国時代では割と良くあること戦国時代にいかに英雄が多く誕生したか、という裏付けでもありますね!

そしてこの官兵衛、幼名:万吉は日々鍛錬を積んで、数百年以上たった今でも歴史家に愛される武将の一人となっていくのです。

このブログではそんな黒田官兵衛の生涯と逸話を暫く紹介していこうと思います。勿論官兵衛以外の武将達の紹介もやっていくので、楽しみにして下さいね。