亀井重綱の忠義・後

しかし重綱はこう言いました。

「昔、経久様は私を興久様の付家老とする際、『興久を守り立て、末代まで中国地方に名将たる名を残さしめよ』と言って幼子をお預け下さいました。なので私め、興久様に武芸武略の全てをお教え致したる所、その成長は著しく早くから他人勝り、この間まで伯耆・出雲に肩を並べる者もあるまじ、これ我が手柄なり、と自負しておりました。しかし今、このような悪事を企てるに及んだのは実に我が補佐の届かざる罪でございます。自害して詫びるべきを、かつての恩の忘れ難さについここまで来て余計なことまで語ってしまいました。私はもはや興久様と君臣の契りを交わした身、経久様の仰せに従い、ここに留まるわけには参りませぬ。これにてお暇いたす!」

重綱は言うが早いかサッと座を立ち、門のすぐ外につないでおいた馬に飛び乗りって「止められる者あらば、止めてみよ!!」と叫んで城を駆け抜け、城下に火を放って風のように走り去りました。経久の家臣が追撃しようとしたが、経久が「追うな!」と堅く止めるので、誰一人これを追う者はいませんでした。

その後起こった興久の乱は大乱となり、重綱は尼子国久に討たれました。重綱の死を聞いた経久は、

「重綱のごとき進退に勇あり、心に堪忍深き侍は稀だった。彼が我ら親子の間に臣たらんとしてくれた行動の数々、思い知るべきである」

と言って嘆いたといいます。

亀井重綱、尼子家の悲劇の陰にいた忠臣の逸話です。