冷泉隆豊の最期

さて大内義隆の最期にも名が出てきた、冷泉隆豊の話をしましょう。

彼は大内義隆の寵臣の一人でした。寵臣とはまぁ・・・そういう事です。この件については後記事でまた纏めたいと思います。

さて義隆には他にもお気に入りの重臣達がいます。彼らの名は陶晴賢と相良武任。とてもやっかいな事にこの二人は家中の武断派と文治派の代表人物でした。大内義隆が色好みで家を滅ぼしたと囁かれるのにはこういう背景があるからなのですが・・・。

さてこの両名は大内家の実権を争い、ついに晴賢の謀反に発展してしまいます。隆豊は、かねてから両者の関係修復に心を砕き、同時に主君にも諫言を何度も行ないました。また晴賢の性格を警戒し、暗殺を進言していたが却下されてしまいます。

かくして隆豊の予想は的中。人望の無い義隆からは次々に家臣が離反していきます。しかしそんな中でも隆豊はあくまで忠義を尽くして戦いますが、多勢に無勢。ついに義隆は切腹します。

この時隆豊は「これより殿が切腹される。攻撃を控えよ」と寄せ手に要請。 さすがに旧主であるためか寄せ手もこれに応じて攻撃を停止しました。隆豊は見事義隆の介錯をつとめ、首級を渡さぬよう遺骸を焼却しました。その後隆豊は圧倒的な敵軍に飛び込んで行き、己の腹を裂いて内臓を投げつけながら討ち死にしたといいます。

辞世の句は

「見よや立つ 雲も煙もなか空に さそいし風の 末も残さず

勿論、「末」と「陶」が引っ掛けられている事は言うまでもありません。主のとっかえひっかえに巻き込まれながらも、忠義を尽くした冷泉隆豊の逸話でした。