吉田郡山城の戦い

尼子晴久が躓いてしまった戦いが此方、前にもチョロっと触れた吉田郡山城の戦い、郡山合戦とも呼ばれる戦です。この戦に至るまでの経緯の逸話をご紹介しましょう。

この頃毛利家は尼子家を見限って大内側へと鞍替えをしていました。このため尼子家家中では毛利討つべしの声が大きくなっていましたが一人この毛利との戦いに反対する人物がいました。尼子経久の弟の尼子久幸、彼は毛利元就は油断ならぬ人物であるので、毛利家とは戦ではなく、外交的解決を行うべきと主張していました。

この久幸、その優秀さと冷静さを買って兄の経久が家督を譲ろうとしたほどの人物です。

ですがこの時既に尼子家も晴久に代替わりしており、尼子家の多くが主戦派になっていた事もあって激しくこの考えに対立しました。当時毛利元就は安芸の一国人。何に臆するものがあると憤ったのです。この久幸の意見に怒った晴久はこう言いました。

「下野守(久幸)殿は戦が恐ろしいのじゃ。だからいつも戦に反対しなさる。臆病野州と呼ぶが良かろう」

久幸は非常に冷静な人物であり、勝ち目のない戦はすぐに見抜いてそれが経久でも反対意見を述べていた人物です。その人物を晴久は臆病者と揶揄しました。

臆病野州。あるいは野州比丘尼。主戦派は彼のことをこう呼び嘲笑いました。だけど久幸はこの仕打ちに耐え、あくまで非戦を訴え続けましたが、晴久は毛利討伐の戦を開始してしまいます。それが、郡山合戦です。