吉田郡山篭城戦・前

元就は尼子家から離れ、大内家に臣従していきます。これにより尼子家との関係は悪化。そして天文9年(1540)、尼子晴久は毛利元就攻めを決断、ここに毛利家と尼子家の戦いが始まります。以前にも説明した吉田郡山城の戦い、吉田郡山合戦とも呼ばれる戦ですね。今回からはこの戦の毛利側で、以前より深く説明していきましょう。

さて尼子家が攻めて来ると知った元就は先ず宍戸親子を始め、高松城主・熊谷伊豆守信直、同豊前守、天野中務隆重、同民部少輔、香川又左衛門尉光景、同弟元忠、といった信頼の置ける同盟者に連絡、この戦への協力要請と人質を出すことも要請しました。尼子家は強敵、まずは防衛の体制を作り上げたのです。

その一方で、城自体の防衛策も欠かしませんでした。城の後をわざと手空きにし、森や林の茂みの中に兵を置いて、合図によって敵との戦闘を行うこと、物頭の侍たちに徹底的に教え込みました。そのうち三猪山の尾崎多治比方面には茶垣を柵のように結ばせて幕を張り旗を立て、この場所を重点的に守る、それも敵から見えるようにと申し付けました。ここにもまた物頭の侍たちに作戦意図をしっかりと説明して兵を置きます。

この時、郡山に立て籠もったのは女子供も含めて8千人でした。その中で兵として使えるのは、わずかに2千4・5百ほどに過ぎませんでした。そして来襲する尼子兵は3万にも及ぶと言われています。ここに元就は家の存続をかけた戦を始めます。