大内家の滅亡に関して

また今回も大内家滅亡に関しての逸話です。さてそれは天文20年(1551)の事だそうな。

大内義隆殿が御茶数寄をなさろうと堺の町の武野紹鴎と申す侘び数寄の者を呼び下し、四畳半の数寄屋を建てて茶の湯を行った所、御内の家老の陶隆房殿と申す人が、

「大内家は16ヶ国の守護であるのに四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど沙汰の限りである!」

と申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。彼は大きな広間に茶釜を数多据え、茶臼を数多取り並べて大勢の小姓に茶を轢かせて点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放ったのである。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。が、このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて大内殿に対して悪心を持った。そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが毛利殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏して陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て、陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話です。が、色々突っ込みどころが多い逸話ですね。まず16カ国だの13カ国だのという領地がどういう計算をしたのの状態なんですが・・・。

そして原文だと毛利が森になっていたり陶が須江になっていたりします。もしかしたら昔では読みが重要で、書く文字は当て字でも良かったのでしょうか・・・・?

まぁ何にせよ、この頃の大内家の不和は近隣の諸国から見ても有名だったのでしょうね・・・。