大内晴持の死と心の傷・2

さて跡継ぎの男子のいない伯父の養子に行った晴持。晴持は分家とはいえ公家の名門一条家の血筋であったこともあって、とても義隆から可愛がられたといいます。一条家の子であった晴持は、当時一条恒持という名前だったのですが、義隆はその養子のために将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を受け「大内晴持」に改名させました。この事からも義隆がこの養子をどれほど可愛がっていたかが理解できるかと思います。

さて養子に取られて可愛がられた晴持、彼自身もよくそれに答えて、文武に秀で大内家必須教養の和歌も身に付けるなどして、いわゆるエリートに育っていきました。

このまま終わればいい話なのですが、それでは逸話としては残りません。(もしかしたらいい話として残ったかもしれないが)

さて天文11年、晴持18才の時に悲劇が訪れます。大内義隆が1万5千の兵を率いて、尼子討伐に向かうことになりました。この戦に晴持も一緒に出陣しました。おそらくこの戦、当時の日本最動員とも思われています。常識で考えて敗北は無かったのでしょう。だからこそこの戦を義隆は晴持の初陣として選んだようなのですが・・・。

ご存知の通りこの戦で大内家はまさかの敗北、撤退を行う事になります。