大内義隆と毛利家

さて中国地方の覇者といえば大内家、一時期猛威をふるった尼子家、そして何やかやでこの二つがいなくなってそして誰もいなくなった最後に残った毛利家が有名です。(宇喜多さんちはまた今度)

そんな毛利家ですが、嫡男の毛利隆元を大内家の人質に出してえらい可愛がられたり、その養女を正室に迎えたり、長男だけじゃなく三男までさしだしたりと(次男は返却されました)色々大内家と縁深かったものの、最後には間接的に陶晴賢の謀反に手を貸した毛利家。しかし、謀叛で死んだ大内義隆の扱いは非常に心配りが利いていたようです。

まず隆元が義隆の死を悼み、義隆と義隆に殉じた者を神と崇めるため竜福寺を建て義隆の絵を描かせてその地に飾らせました。次に息子の輝元が天正三年に義隆の二十五回忌法要、天正十一年には三十三回忌法要、慶長五年(関ヶ原の戦いのあった年)に五十回忌の法要を行っています。

なんとそしてその後も律儀に律儀に法要を行った毛利家。元禄十三年に百五十回忌、寛延三年に二百回忌、寛政十二年に二百五十回忌、嘉永三年に三百回忌・・・・明治時代になってからも毛利家による大内義隆追悼の念は変わらず、明治二十二年には古くなった寺を整備し新たに墓標を建て直した程です。

もしかしたら最初は人気取りや周りに毛利こそが大内の後継者である事を知らしめるために始めたかもしれないが、ここまで来るとなかなかできない事です。

皆さんもお世話になった方の法要などは欠かさないようにしましょうね。