大内義隆の山口退去の一コマ

さて今回は家臣達の謀反により山口の地を追われた時の、大内義隆についての逸話の一つです。

天文20年8月末、陶晴賢は遂に謀反の軍を挙げ、山口の西と南西より兵を向かわせました。これに対して山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張しますが、館は防ぐ事に向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居たといいます。この時寵臣らが退去を推したため、義隆は館を捨てて大内氏館の北、山間の法泉寺に入ることを決定しました。

さてそれに従った兵は三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配置しました。ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また、法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまいました。

この為に日が明けて本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのですが、その使者に立ったのが阿川隆康。義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物です。皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのですが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまいました。残った兵達はこれを見聞きして、更に意気消沈したといいます。そりゃそうだ・・・。

さて昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきました。その数五千余。それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で陶方の不忠を罵り責めました。陶方の兵はこれに恥じ入って進まずまた義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと互いに退いたといいます。その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなります。因みに法泉寺に残った陶隆康(晴賢の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死しました。

陶家も一枚岩でなかった事、そして兵の生き方は土壇場で量れるという事を感じさせてくれる逸話ですね。