寧波の乱・前

大内義興が細川高国と不仲となり、その他色々の事情があって京から帰国するに至ったという話は以前にも紹介したかと思います。今回はその不仲が興したとある乱についてご説明していきましょう。

日本での年号は大永3年、明の年号では嘉靖2年。大内義興は明の寧波に謙道宗設を正史とした遣明船を派遣しました。この時、幕府管領細川高国も鸞岡端佐を正使、日本に帰化した中国人である宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していました。

大内家と細川家は古来より貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのですが、この時は特に、大内義興の京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた時です。

寧波には大内家の船が先に入港していました。この頃の慣習として、先に入港した船から入港検査が行われます。ですが細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に入港検査を始めました。

これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれません。が、時期が悪かったのです。大内家の者達はこれを細川家による大内への露骨な挑発と受け取りました。

皆さんはご存知でしょう。この時代の武士はこう言うとき、我慢はしないという事を。