山中鹿之助最後の手紙

前回は尼子勝久の最後の言葉を紹介しましたので、今回は山中鹿之助の最後の手紙の内容と言う逸話をご紹介しましょう。

上月城に籠る尼子再興軍は降伏後、総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許されます。10年間尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際に吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束されたものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まります。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めたのかは解りませんが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していました。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」

その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に備中国合の渡で殺害され、その生涯を終える事になります。

この事は三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らずその為に毛利の手により鹿之助は殺害されたとされており、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見となった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなります。

真相は如何に、と思わせられる山中鹿之助の最期です。