幸松丸の後見人・1

毛利元就は兄の子で、甥の毛利幸松丸の後見人をしていた事は既にご存知の事と思います。その時元就は後見人の一人である、多治比殿と呼ばれていました。そう、元就一人が幸松丸の後見人ではなく、元就以上に後見人として毛利家での発言力を持つ人物がいたのです。

かの人こそ高橋久光、石見の豪族であり、輿元の舅で幸松丸の祖父、即ち幸松丸の母親の実父の人物でした。武将としての器量にも優れており、輿元亡き後は幸松丸の後見人として毛利家での実験を握り、石見高橋氏の全盛期を築いた人物です。当時久光は六十歳を超えていましたが、大内氏や尼子氏の下で家を守り生き抜いてきた人物の力は凄まじく、若い元就の発言力は久光の前には殆ど無かったようです。

ですがその久光、1521年に備後の豪族三吉氏を撃つべく兵を出したものの三吉傘下の
加井妻城で青屋友梅に討たれ戦死してしまいます。この前年に久光の嫡男も戦死しており、高橋氏は孫の高橋輿光が継ぐ事になりますが、その後は一族内での内乱が相次ぎ、衰退していってしまいます。久光死後は高橋氏は元就との関係は険悪なものとなっており、この高橋氏の滅亡にも元就の謀略があったと言われています。

ともあれ久光の討死により、元就も兵を出します。