廻城攻防線における少し悲しい話2

1561年。島津家と友好を築いていた肝付家との争いが始まる。事の発端は酒の席で酔った島津家の家臣が肝付家の家紋にある鶴の吸い物が食いたいと言い出した事だが、実際にはそれ以前からお互いに鬱憤が溜まっていたのかもしれません。肝付家の友好国である伊東家も加わり、そこにまた・・・と事態は南九州を巻き込んだ戦乱になります。

父・島津日新斎もなんとか昔のような友好を築こうと奔走したがどうする事も出来ず、戦は始まります。この時、次男忠将は忠将は竹原山にて町田久倍ら率いる味方が肝付勢の急襲されたとの報を受け、これを救援するために馬立塁から出陣。この時少勢での救援を心配したのか、家臣達は忠将を諌め、本陣から動かないように進言したが忠将はこれを聞き入れずに出陣。その結果山中に付してあった敵兵の挟撃を受ける事になりました。

後続の味方が駆け付けた時には忠将率いる主従数十人はことごとく討ち死にしていたという。この後、貴久は何とか肝付家を退けるが島津家は敗北してしまいます。

島津忠将・享年42歳。島津家の三州統一が順調に進んでいた最中の、早すぎる死に家中の誰もが衝撃を受け、涙したと言われています。特に忠将に大きな信頼と期待を寄せていた父・日新斎の嘆き悲しみは、計り知れないものであったと思われる。が、ここからが三男・尚久の不幸の始まり。