当時の毛利家

さて前回で毛利家の当主は元就ではなく甥の幸松丸という話をしました。この当時の毛利家の状況を簡単に説明しましょう。

毛利元就には兄・毛利輿元がいました。輿元と言う名は烏帽子親になった大内氏より頂いた輿の字を名乗って、輿元としたようです。輿元は大内方だったようで、大内勢として尼子方と戦った事もあります。戦だけでなく領内の国人対立の調停を行うなど、芸備の国人領主のリーダー格として活躍していた人物でした。しかし近隣の宍戸元源との争いは続き、興元は宍戸領内へ攻め込んで幾度も戦いましたが勝負は中々着きませんでした。

この度重なる戦で心身ともに疲労したのか、輿元は酒に逃げるようになり25と言う若さで病死。元就には父・毛利弘元がいますが、こちらも隠居後に酒を煽るようになり早くに亡くなってしまいました。お酒に逃げるのは血筋だったのかもしれません。

さて跡を継いだ幸松丸は僅か九歳。元就は後見人となって働きますが鏡山城の戦いでとんでもない事態が起きました。敵方の首を取った元就が首実験で幸松丸に見せたのですが、九歳の子供に生首はショックだったのかその後幸松丸は病死してしまいます。その後、元就は腹違いの弟との争いに勝って毛利家の後を継ぐ事になりました。あの毛利元就が家を継ぐには、このような流れがあったのです。