応仁の乱と和議・2

これだけ見れば武田家の大勝利かと思われますが、実際にはそうではありません。

その一方で京都の戦線では武田軍の苦戦が続いており、文明2年の勧修寺合戦で逸見真正の弟(嫡男とも言われている)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの家臣を失ってしまいました。その上翌年早々、信賢の弟・元綱が独立を図り、西軍へ寝返っているなどのお家内での問題もありました。

これらの心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝。急遽その弟である武田国信が後を継ぐという状態になりました。この頃細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営ともに厭戦気分が漂い始めます。

そして文明6年の4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立します。大内氏のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいましたが、多くの大名は和議に参加しました。一説によるとこの和議の仲介役となったのは、武田国信であったといいます。

実弟が敵陣営に寝返った事により、領国経営が深刻な状況に陥っていたのかもしれません。そう考えると、もしかした国信から進んで仲介役となったのでしょうか。

ともかく、この和議はなんとか成立し、国信もやっと落ち着くことができた

 

 

・・・・・・・・・ように、見えたのですが。