新宮党粛清異聞録・前

今回は以前にも少し触れた、毛利元就、尼子家の新宮党粛清への介入説のお話です。

尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力となっていた一族衆でした。しかし尼子経久の三男・塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は1554年、晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死に、消滅してしまいます。

家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説の他に、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話があります。

尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居ました。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させるなどしていたので、城中や城下での評判はとても悪いものでした。新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫ります。仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなりました。