毛利隆元と赤川元保・前

さて毛利隆元の急死につきましては、こんな逸話が残っています。

毛利家中に赤川元保という男がいます。生まれ年は伝わっていないのですが、元就が毛利家当主を継ぐ際に出した起請文に署名している事から、おそらく元就と同世代かそれより上だろうと思われます。長らく元就の直臣として仕えていた元保は、隆元が当主となった後は隆元付きとなりました。

毛利家で五奉行制度が始まると、元保は五奉行筆頭となり隆元派として幅を利かせ、
他の重臣で元就派の桂氏や児玉氏と諍いを起こすまでに隆元に入れ込んでいました。そんな家中きっての隆元派だった元保だが、主・隆元とは決していい関係ではなかったようで、隆元は書状で何度も元保について愚痴をこぼしています。

曰く、「赤左(元保)は思案無き者で傲慢な振る舞いが多い」とのこと・・・・。

元保がこの隆元の愚痴を察していたかどうかは分かりませんが、この主従には微妙な温度差があったものと思われます。

そして、永禄六年八月三日のこと。出雲遠征に向かう途中、佐々部の地に滞在していた隆元のところに地元の城主、和智誠春から饗応の誘いがありました。出立を控えた時期に饗応などと元保は強く反対するも、日ごろから元保の言を疎ましく思っていた隆元は元保の意見を聞き入れる事はありませんでした。予定通り和智氏の館で饗応を受け帰路についたその時、隆元が突然苦しみ出します。傍にいた者達は慌てて医者を呼ぶも、介抱虚しく八月四日の早朝、隆元は息を引き取りました。