流れ公方

今回は流れ公方、足利義稙の最期と、そこに至るまでをご紹介しましょう。

永正6年10月深夜、足利10代将軍・義稙の御所を円珍なる荒法師が襲いました。北陸を転々としていた義稙は、2年前に細川高国らの後援により11代将軍・義澄を追放して将軍の座に返り咲いたが、円珍はその義澄が放った刺客でした。この円珍は記録上の最初の忍びとされています。

円珍らは義稙の近習をことごとく斬り倒し、義稙自身さえも手傷を負う有様だったが、とっさの
機転で屋敷中の灯りを消して隠れたところ円珍は近習の死体を義稙と誤認して去りました。この後永正10年3月、高国と対立して身の危険を感じた義稙は、誰にも告げずに御所から姿を消しました。突然の将軍の失踪に後土御門天皇までが憂慮してお言葉を発すも、当の義稙自身は逃亡先の甲賀で病気になり寝込んでいたそうです。

天皇周辺をも騒がせた事態に高国が折れる形で和解が成立し、京に戻った義稙。ですが義稙は大永元年3月、今度は堺に逃亡しました。しかも今回は後柏原天皇の即位式直前でした。武家の棟梁が即位式を欠席するという椿事に天皇は激怒し、義稙の将軍職は廃されて義澄の子・義晴が12代将軍となりました。義晴についてはまたいずれ。

帰る場所を失い今度は海路阿波へ向かう義稙。その船中に落首が貼り出されました。

『 誰ぞやこの 鳴門の沖に 御所めくは 泊り定めぬ 流れ公方か 』

それより2年後、大永3年4月、義稙はそのまま阿波で永眠しました。

この時代の将軍達はみな、多かれ少なかれ壮絶な人生を送っています。その内の誰が一体幸せであったのかは、今となっては誰にも分かりません。