相良武任の出奔・一回目

今回は大内義隆の寵臣であった、相良武任の逸話をご紹介しましょう。今まで数度その名前が出て来ている相良武任ですが、彼が大内義隆に仕えている間にこんな事があったのです。

さて相良武任は大内義隆に右筆として仕えた男です。そして義隆に寵愛され、右筆以上の権限を持つようになってからは大内家の武断派、特に陶晴賢から激しく嫌われていました。

そんな天文14年4月、武断派奉行による掟書が出される事になります。殿中並びに私の銭、近年殊に過麗に及ぶと云々~で始まるそれはまぁ簡単に言えば、

「武を忘れるべからずの精神」

を説いたものでした。

要するに尼子攻め失敗以来すっかり文弱になった義隆と、そんな義隆を甘やかす武任をあてつけるような内容だったといいます。これにより家中に居づらくなった武任は剃髪して、本家である肥後相良氏を頼って大内家を逃げだしました。

天文14年5月、武任出奔。一回目の。

さてこれに困ったのは義隆です。肥後の安国寺に説得を依頼し、義隆自身も手紙を出して必死に武任を説得しました。その説得期間はなんと三年近く。長く続けられた義隆の説得に、そこまで必要としてくれるならば、と武任は大内家に戻ることを決意しました。

天文17年8月、武任再出仕。もちろん話は続きます。