相良武任の出奔・弐回目

さて戻ってきた武任にイラつく陶晴賢を筆頭とした武断派。この頃から武断派は武任だけでなく義隆にも反感を抱くようになってきていました。

天文18年1月。陶晴賢、生余次郎間の密約を露見させた家人を麻生が殺害し義隆直々に晴賢を詰問する事件が起こり、同3月から5月まで山口に滞在していた毛利元就御一行と晴賢が内密に連絡をとり合っている噂など不穏な空気が家中に漂いはじめます。

天文19年9月になると晴賢による義隆・武任幽閉計画の噂が立ち、二人はそれを警戒して予定されていた神社参拝とり辞めました。その数日後には逆に義隆による晴賢暗殺の噂が立ち、晴賢は晴賢で自邸の警護を固めます。

どちらも噂で済んだのですが武任は恐ろしくなったのでしょうか。

天文19年9月、武任出奔。弐回目。

武任は剃髪して石見の吉見正頼を頼り、船を使って筑前まで逃ました。筑前守護代杉興運の庇護を受け、花屋城をもらってそこで暮らしていたのですが、逃げたままでは面目が立たないと思ったのか、あくる日筆を持ち自身を弁明をする書状を書きます。これが「相良武任申状」である。

これには自己弁護の他に、

「晴賢が謀叛起こすという噂がありますがこの噂を広めたのは杉重矩です」

「てか杉重矩も晴賢を嫌ってたくせに今になって晴賢方につくなんておかしい」

などと杉重矩を非難する内容もあったといいます。ある意味これは的を射ていたので杉重矩の未来に暗雲をもたらす事になるのですがまぁそれは置いといて。これを読んだ義隆は武任を再び呼び戻しました。

天文20年1月、武任再々出仕。さてまだ続きます。