自領に持ち込んでしまった不和・1

さて時はまた流れ永正四年。当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺されました。いわゆる永正の錯乱ですが、これが大内家のその後の進退に非常に影響してきたとも言われてます。

養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害しましたが、今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立します。この高国が西国の雄と言われた大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになったのです。

この時、見事上洛を果たした義興は、保護していた足利義稙を将軍職に復帰させて、自らも左京大夫(京兆)・管領代として細川高国と共に幕政を執行する立場になりました。また軍功を賞され山城守護も与えられました。

しかしその後も一時的に逃走した細川澄元らの幾内への侵攻は何度も行われ、最初の内は義輿と高国は敗北を重ね、防戦に追い込まれます。しかしその後見事澄元らを破り、京都の土地を取り戻したのです。この件を将軍に賞されてそれから長い間京に留まるようになりますが、その後、義輿と高国は段々と不和になっていきます。

そして義輿は京の地を離れ自国に帰る事になります。