自領に持ち込んでしまった不和・3

義興に従って山口に向かう最中で、名を変えていく公家達。この光景、実はこの行列中では何度も繰り返された光景でした。都落ちの公家はこの松原某ばかりではなく、何人もの少なからぬ公家が大内義興の都落ちに同行し、そのまま周防長門の地で在地化、武士化して、大内義興、義隆の近臣を形成してしまったのです。後年、太寧寺で大内義隆に殉死した近臣の中に、譜代には見えぬ名前が多くあるのはそういう理由もあるのだとか。

相良武任だけならばまだしも、蹴鞠や和歌しか知らぬような公家崩れの側近が主君・大内義隆の周囲を固めている。譜代の家臣である陶隆房や内藤興盛らの心中如何であっただろうか・・・・後年残ってしまった大寧寺の変の理由も、この事が原因だったのでは、と言われています。

歌や蹴鞠では国は保てない、ましてや一門譜代をおろそかにしては・・・。

知らずと我が子我が家の災いを自ら持ち込んでしまった、そんな話です。

 

さて、実は義輿の帰国にはもう一つの逸話があります。

義興が在京していた頃、京で彼が密通していた女への恋文を侍女がよりにもよって、当時京に上がってきていた彼の北の方に届けてしまいました。北の方は勿論これに激怒、義興を追求します。それに窮して義興は、彼女をなだめるために帰国する事になったのでした。

実際、大寧寺の変も義隆の色恋沙汰がややこしい事になって戦に発展した、という説があるので此方も大内の行く末を暗示している話かもしれませんね(笑)