軋轢

尼子家の領地拡大に尽力した新宮党。しかしその存在は、徐々に尼子宗家にとって厄介な存在となっていきます。経久が尼子家の存在を盤石化しようとして行なった国久、晴久の両党体制も、権力を一本化できず、逆に晴久にとって弊害にしかならなかったようですね・・・。

力を付け過ぎた新宮党は、尼子宗家相手にも横暴な振る舞いをするようになっていったようです。特に国久の息子である誠久の横暴さにはいくつかの記述が残っています。

そのひとつに誠久は自分の目の届く範囲内では下馬せよという命令を下したというものがあります。この命令には尼子領内の者達が大変迷惑しました。それに反発した熊谷新右護門という武将が、牛の背に鞍を置いてまたがり、鷹狩りの最中の誠久の前を通り過ぎました。誠久が家臣を通じて下馬を命じると、熊谷は「下馬の事は知っているが、だから馬ではなく牛に乗っている」と平然と言い放ちました。熊谷の威圧感に誠久の部下達は引き下がるしかなかったという話です。

他には、中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいましたが、彼は誠久に呼びつけられてその髭をなじられ、暴行を受けました。翌日、晴久の前に出仕した中井は髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度に怒りました。それに対して中井は、誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭をすべて剃るのは晴久に対して無礼になるとして、片方だけ剃ったと言う話です。

これらは多くが後世の創作でしょうが、当時、新宮党という存在に尼子家の者達が迷惑を被っていた、という事は恐らく間違いがないでしょう。