陶氏の最期・前

さて陶晴賢の死後、大内氏は急速に崩壊し、2年後の弘治3年3月には毛利軍が山口まで侵攻してきました。大内義長は重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたのですが、毛利軍はあっさり約定を破り約束は破るためにあるんだよ!長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなりました。

この時、陶氏の家臣・野上隠岐守房忠はひとり山口に残された晴賢の末子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる幼子に言いました。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われて長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶晴賢の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょう。亡き父上や兄上方もさぞかし喜びまする。」

そう涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸は

「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」

と問いかけます。房忠は

「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白き所にございまする。その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです」

と答えました。

既にこの時点で涙が出てきそうですが、続きます。