陶興房の死

大友、少弐家両家の争いが落ち着くも、大内家に暗雲が立ち込め始めます。

天文8年、1539年に、父の代からの補佐役であった陶興房が病没したのです。少弐家、大友家の戦いでは後れを取ったりしたものの、陶輿房は大内家に長く仕えた名将であり、勇将でもありました。その息子の陶晴賢はその優秀さから「西国一の侍大将」、「西国日本一」と褒めそやされた武将です。既に長男は亡くなっていたので、その跡は次男であった晴賢が継ぐ事になりました。尚、この時晴賢はまだ隆房を名乗っていましたが、晴賢の名の方が有名ですので此方で表記します。(もちろん、隆の字は義隆から頂いたものです)

家督相続では既に在命時から晴賢に譲られていたという説がありますが、その多くは明らかになってはいません。

因みに長男の興昌には享禄2年に先立たれているのですが、これは興昌と主君である義隆の関係が険悪であったために興房が殺害したという説もあります。主君の為に息子を殺害したとするならば哀しい忠義の徒ですね・・・それなら次男殺害しとけよとか言わない

また、その死の直前、息子である晴賢の性格が将来に災いするのではないかと案じていたと言われています。ほらやっぱり次男が滅ぼry