陶VS毛利

如何に密約があったとしても、流石にこの勝手な元就の独断を見かねた晴賢は、毛利家に詰問状を送ります。そして同時に吉見正頼討伐に協力するように要請するもしますが、これに晴賢は手痛いしっぺ返しを食らいます。その返書にはこのように記されていました。

「我が毛利家は、大内家先代・義隆公の代から安芸の裁定自由を認められています。それは晴賢殿も追認なさった筈です。今更毛利を抑えようとなされるのは明確な協定違反です」

この返答に 晴賢は大激怒。これから毛利家と陶家の関係は急速に悪化していきます。

但しこの手紙は毛利元就ではなく、嫡男の毛利隆元によるものだと言われています。山口で人質生活をしていた頃に隆元は、人質の身分でありながら大内義隆に大変深く愛され丁重な扱いをされたので、その恩ある義隆に謀反を起こして討った陶晴賢に対して深い恨みを抱いていた、という見解のようです。恩義ある相手を討った相手とは仲良くできないのは当然の事ですね。隆元人質中に父親の為に自害しようとした隆元を止めて窮地の元就に援軍を出してくれたのは陶晴賢じゃないかとかは言わない約束。

そして弘治元年、晴賢は2万の大軍を出陣させ、安芸に向かいました。陶家と毛利家の戦いが幕を開けます。