亀井重綱の忠義・前

さて尼子家の武将最後の話。尼子経久の三男・塩谷輿久に仕えた人物、亀井重綱の話です。この重綱は前回出てきた亀井さんこと亀井玆矩の妻の大叔父に当たる人物、と言われています。

ある時、輿久は父・経久に領地の加増を申し出ましたが、つれなく断られました。この事を不満に思った輿久は乱を起こしてしまった事は以前話したと思います。今回の話は、これを深く解説していきます。

領地の加増を断られた輿久、彼は家老であった亀井重綱に自らの怒りをぶちまけました。

「これほどまでに宗家に尽くしている私を無下に扱うとは!これは筆頭家老で晴久付きの亀井安綱の入れ知恵だろう。ならば富田城を襲って父を幽閉し、晴久を殺し、憎き安綱めを鋸挽きにしてくれようぞ!」

主君が謀反を企て、己の兄に憎しみを向けるのに驚いた重綱は、興久を諌めました。

「父が悪くとも子が孝行を尽くせば、父も顧みて元の絆を取り戻せるでしょう。それでも殿が我が兄・安綱を憎むとあらば、拙者一人富田城に乗り込んで兄と刺し違えて参りましょう。とにかく、どうか謀反だけはお止めくだされ」

しかし興久の怒りと野心は収まらず、享禄3年、輿久はついに兵を挙げてしまいました。蜂起の前日、重綱は密かに月山冨田城の経久を訪ねて全てを打ち明けました。経久は興久に対し激怒したが、重綱には事が済むまで富田城に留まるよう言い渡しました。

亀井さんのおおいで

さて外国に夢を見た男亀井玆矩。彼が行ったのはそのやり過ぎた感のある外交だけではありません。

時は戦国の世、鳥取平野は千代川の氾濫が度々あり農業用水の確保が難しく、その土地の多くが田畑に適さない荒地であったので鳥取の住民の多くが貧しかったのです。これを深く憂いていたのが、時の因幡鹿野城主、亀井茲矩です。

さて玆矩は関ヶ原で東軍についたことにより、三万八千石に加増されました。これにより玆矩は長年の懸案を一挙に解決させようと動き始めます。それこそが用水路の造成による、新田開発です。

茲矩は馬で現地を視察し、ついてきた役人にこう言いました。

「我が馬の足跡に沿って水路を作るように」

こうして慶長5年からなんと7年もの歳月をかけ、延長16kmにも及ぶ「大井手用水路」が完成しました。この用水路には水量を調節する多くの「樋」が造られ、樋守が置かれた。そして水田の大きさによって支流の水路の幅や深さを決める事で、効率の良い分水が可能となったのです。水路の完成により、それまでの荒地に新田、新畑が次々と開墾され、千代川の西側では、
当時だけで1200haもの新たな田畑が作られました。

この水路に助けられた地元の人々はこの水路を『亀井さんのおおいで』と呼び、亀井茲矩への感謝を今の世までも忘れないようにしていると言います。

外国に夢を見た男、彼は地元を豊かにする事にも力を尽くした人物だったのです。

世界に夢を見た男・後

但し玆矩の琉球攻撃に困ったのは九州の勇・島津家です。琉球への秀吉代理としての立場がなくなるだけでなく、琉球交易の利益もなくなるので必死に玆矩による琉球攻撃を妨害し、玆矩の琉球進出は頓挫してしまいました。

さて玆矩は秀吉から貰った琉球守と書いた扇を大事にしていたと書きましたが、この扇を朝鮮出兵の際にまで持って行ったようです。しかもこの扇、何と朝鮮の李瞬臣に奪われてしまいました。そのため、朝鮮側の戦果報告書に正式文書としてしっかりと記載されてしまいました。言ってみれば、外国に恥をさらしてしまったのですが・・・。

因みにこの頃、玆矩は「台州守」と名乗っていました。これは朝鮮から中国に行って、その土地を貰おうとした訳ですが・・・何とも、外国が好きな人物です。

さて玆矩の外国好きはこれだけではありません。城持ちになってからも海外への憧れはとどまる所をしらず、遂にはタイとの朱印船貿易を始め、鹿野城をわざわざ東南アジア産の木材で大改修。城下町の山河にインドの仏跡に因んだ名前をつけ、パダニ(マレーシア)との通商が途絶えた時には勝手にパダニ国王へ手紙を送るという始末。いやはや、この時代にグローバルな男であります。

亀井玆矩、戦国の世には稀に見る、外国に夢を見て生きた人物です。

世界に夢を見た男・前

さて山中鹿之助の話の最後として、とある男の話をしましょう。これは山中鹿之助の家臣でもあり、鹿之助が亀井家から迎えていた養女を妻にした、即ち鹿之助にとっては娘婿にもなっていた男・亀井茲矩の話です。

彼は尼子再興が失敗した後は豊臣秀吉に仕えており、毛利攻めで功を上げ鹿野城を与えられています。が、この鹿野城は秀吉が毛利家と講和してしまったためにお流れとなりました。なので秀吉、代わりに別の恩賞を与えようと何が欲しいか聞きました。これに玆矩、こう答えました。

「では琉球を頂きたい」

当時、琉球はまだ外国でした。これに困った秀吉、こう返しました。

「よし分かった。じゃあこの「琉球守」をくれてやろう」

と、琉球守(りゅうきゅうのかみ)と書いた扇を渡しました。秀吉がこの時本気で琉球をくれてやろうと思ったのかどうかは分かりませんが、おそらく扇を渡す事でお茶を濁したのではないかと思います。

ですがその後、玆矩は亀井琉球守と名乗り、呼ばれるようになっていきます。そしてこの時貰った扇を肌身離さず持ち歩き、その上秀吉のお墨付きをもらった玆矩は何と、秀吉に許可を貰って琉球攻撃を行おうとしたまでした人物です。余程外国に憧れを抱いていたのではないでしょうか。