本音と建前

毛利家と尼子家の争いは続きますが、永禄三年(1560)十二月、毛利家に、尼子家の当主・尼子晴久が重病であり、もはや十死一生の様態であるとの情報が入りました。既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと重い、ある時元就のもとに皆が参集した折にその話を元就に伝えると、元就は突然気色を変えて家臣たちを怒鳴りました。

「晴久が既に死んだというのならもう是非に及ばぬことであるが、晴久も自身が存命のうちに、我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをした時も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに残念の至である。総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である!おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。これは誠に、是非無き心である!」

この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったといいます。尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応です。まぁ本音と建前は逆にしておけよ、というお話なのでしょうかね。

そう言えば上杉謙信が武田信玄が死んだとき悲しんだともありますが、あっちは戦バカなのでどうだったのか微妙なところではあります。

土竜攻め

さて大内氏を破った毛利元就は尼子家との戦いを開始します。そしてその前哨戦になる戦いの光景がこちらの逸話。

永禄2年2月のこと。この頃石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏は激しく争っていましいた。そこで元就は次男・吉川元春に、尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じました。しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥りました。

そこで元就が決断したのが、土竜攻めです。穴を掘って城の内側から攻めようという奇襲策です。これにより石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められました。そしてそんなある日のこと。

「おい、こっちに空洞があるぞ!」

「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ・・・・え?」

その先には、人がいました。なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのです。予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わ・・・す筈もなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合開始。

結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。諦めた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意。半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めはごく平凡な結末に終わりました。

珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話です。

新宮党粛清異聞録・後

故郷に帰る道すがら、角都は数人の座頭仲間と出会い、意気投合します。そして彼らと親しくなった角都は驚くべき噂を彼らから聞かされました。

角都を月山富田城から追放した尼子国久が、主君・晴久を追い落として出雲国主の地位を得ようと企んでいるというのです。この話を聞いた角都は直ちに取って返し、尼子晴久に事の次第を通報しました。激怒した晴久は叔父国久を始めとする新宮党を粛清してしまうのでした・・・・が。

実はこの国久謀反の法を角都に伝えた座頭らは毛利元就配下で各地に間諜として遣わされた座頭衆と呼ばれる忍びであり、角都と尼子晴久は元就の策にまんまと嵌められたのでした。尚、雲陽軍実記によるとこの角都なる座頭は後の尼子義久の 時代にも側近として存在し、宇山久信らの尼子家臣を讒訴した為、尼子氏の凋落の一因になったといいます。うーん毛利元就の策謀おそるべし、となるべきところなのでしょうが、これはちょっと元就を神格化し過ぎているな、と思いますね。

新宮党粛清は尼子家を一本化するになくてはならないことでしたし、むしろその後は元就のラッキースキルが振るった結果ではないかと思います。いや、毛利元就って凄い人物なのは分かりますが・・・。

しかしこのように色んな話を知るのは面白いですね。色々な逸話を調べながら比較して、自分なりの戦国時代観を語り合うのは楽しいかもしれませんね。

 

新宮党粛清異聞録・前

今回は以前にも少し触れた、毛利元就、尼子家の新宮党粛清への介入説のお話です。

尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力となっていた一族衆でした。しかし尼子経久の三男・塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は1554年、晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死に、消滅してしまいます。

家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説の他に、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話があります。

尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居ました。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させるなどしていたので、城中や城下での評判はとても悪いものでした。新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫ります。仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなりました。

謀神、敵の間者を使う・後

元就が軍議の席でそう零した翌の日のこと。吉田郡山城から内別作の姿が消えていました。さてはやつめ尼子の間者であったか!と家臣は大騒ぎ。しかし当の元就は、

「さてこそ軍は既に勝ちたり」(これで勝ったも同然だ)

と、大喜びであったと言います。さてその理由とは?

実は、もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから敵が大軍であっても容易に戦える、という状況でした。実際に昨夜の軍議の際にも内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えなんだから逆じゃないか?と誰しも思っていたですが、殿には何か考えがあるのだろうとその場はその言葉に従ったと言いいます。何という主君への絶対の安心信頼。

そして1540年8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ元就と駆けつけた陶晴賢、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したといいます。

毛利元就、敵の間者を逆に使って策を成して勝つ、という逸話です。いやはや凄い話ですが、何が凄いって患者を見抜いたとか逆利用したところよりも毛利家家臣の信頼が凄いですね。流石謀神、部下からの信頼関係も一流、という逸話でした。

謀神、敵の間者を使う・前

さて今回も引き続き、吉田郡山城の戦いでの逸話をご紹介しましょう。

時は1540年。祖父、尼子経久より尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじ、と訴え、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出して毛利家を攻め滅ぼそうと動きました。これに対して毛利家も懸命に対抗すべく兵を動かし策を巡らします…

これはその戦いの、数年も前の話になります。

一人の男が吉田郡山城の門を叩きました。男の名は内別作助四郎。 尼子晴久の側近くに使えた者でしたが、晴久の勘気を蒙って尼子家を出奔してきたという境遇の者でした。元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにしました。

しかし実は内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔をした者であって、その真の目的は毛利内部の様子を探るといういわゆる間者でした。そんな内別作を側近くで用い続ける元就。

そしていよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れ始めます。元就は家臣らを集め軍議を開き、愚痴るようにこう言いました。

「晴久が甲山に陣をしいてくれればいいのだが、もし三猪口に布陣されでもしたら防州への通路を断たれてしまい、我らは手の打ちようが無くなってしまう…そうなってしまえばこの城は一日どころか半時と持たないだろう。その場合はここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げるしかないだろうか」

 

吉田郡山篭城戦・前

元就は尼子家から離れ、大内家に臣従していきます。これにより尼子家との関係は悪化。そして天文9年(1540)、尼子晴久は毛利元就攻めを決断、ここに毛利家と尼子家の戦いが始まります。以前にも説明した吉田郡山城の戦い、吉田郡山合戦とも呼ばれる戦ですね。今回からはこの戦の毛利側で、以前より深く説明していきましょう。

さて尼子家が攻めて来ると知った元就は先ず宍戸親子を始め、高松城主・熊谷伊豆守信直、同豊前守、天野中務隆重、同民部少輔、香川又左衛門尉光景、同弟元忠、といった信頼の置ける同盟者に連絡、この戦への協力要請と人質を出すことも要請しました。尼子家は強敵、まずは防衛の体制を作り上げたのです。

その一方で、城自体の防衛策も欠かしませんでした。城の後をわざと手空きにし、森や林の茂みの中に兵を置いて、合図によって敵との戦闘を行うこと、物頭の侍たちに徹底的に教え込みました。そのうち三猪山の尾崎多治比方面には茶垣を柵のように結ばせて幕を張り旗を立て、この場所を重点的に守る、それも敵から見えるようにと申し付けました。ここにもまた物頭の侍たちに作戦意図をしっかりと説明して兵を置きます。

この時、郡山に立て籠もったのは女子供も含めて8千人でした。その中で兵として使えるのは、わずかに2千4・5百ほどに過ぎませんでした。そして来襲する尼子兵は3万にも及ぶと言われています。ここに元就は家の存続をかけた戦を始めます。

 

尼子攻めと負った心の傷

さて大内義隆の敵は目下尼子勢のみとなりました。当時尼子家は嫡男・政久を失って家中が揉めていた頃です。

さてまずは1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、大内家と毛利家は尼子家を退けました。翌年には武田信実を滅ぼして安芸の支配権を確立しました。この頃はまだ問題ではなかったのですが・・・・。

問題の1542年。この年、謀聖と謳われた尼子経久が逝去した事で、尼子家臣が大内家に離反してきました。嘉隆はこれを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征します。これが大内家の命運を分ける事となりました。

義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考えていました。そのため、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻しました。 だけれど尼子軍の新宮党の予想以上の抵抗と、長期にわたる派兵によって領主達の不満は募っており、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなって遠征は失敗に終わります。その上この時養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死した事で、義隆は心に深い傷を負ったのかますます戦嫌いとなって、以後は戦場に出向くことはなくなったといいます。

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尼子家の衰退

尼子家の力を盤石化させ、毛利家との戦にも連戦連勝を収めていった尼子晴久。そのままいけば今日もっとその名を色々な所で見かけるようになっていったのかもしれませんが・・・尼子晴久は志半ばで急死します。享年47歳。死因は脳溢血であったと言われています。祖父に「血気にはやる所とカッとなりやすい所がある」と言われていますので、もしかしたらその気性のせいもあったのかもしれませんね。

晴久の急死により、その後は息子の義久が継ぐ事になります。しかし義久は今だ経験が浅い事と、晴久が今だ宗家の権力の集中化が途中であると言うこれまた負の遺産を持ってからのスタートとなります。(父親同じくやっぱり毛利家プロデュースにより義久は無能武将の烙印を押される事になります)

この当時はちょうど国人衆らの不満が爆発してきた時期でもあり、それらを抑える事にも義久は色々と手を討っていましたがそこにやってきたのが

毛利「こんにちわ!」

毛利家です。(やっぱりなんて言わない)

此処に再び毛利家と尼子家の戦いが始まります。これこそが第二次月山富田の城の戦いです。当初はこれに尼子側も良く対抗して城を守っていたので毛利も攻めあぐね、兵糧攻めに切り替えていくのですが・・・この戦いが、尼子家の衰退の始まりとなってしまうのでッス。

 

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新宮党粛清の裏話

さて新宮党を粛清して尼子家内の権力を宗家一本化する事に成功した尼子晴久。この粛清の理由は、実際には分かっていません。原因は今の世に至るまで色々なものが憶測されています。

良くある一説では毛利元就がいずれ対決するだろうという尼子氏の弱体化を図り、偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われています。この元就の策にはめられて晴久は新宮党を粛清してしまった・・・と見る説が多く言われてきましたが、これはあの特に目立った功績も無い真田幸村(そのような人物は歴史上存在しません)を有名武将化してしまった講談からの説なので、事実この時点では以下に元就といえどここまでは推測していなかっただろうと言われています。元々晴久が無能な人物であったから唱えられた説ですが、晴久無能説も毛利によるでっち上げのようなものですからね。

やはり権力の分散している事による弊害と、力を付け過ぎて傲慢な振る舞いの目立ってきた新宮党の存在により、粛清せざるを得なかったのでは、というのが今の通説でしょうか。ともあれこれにより尼子宗家の力は増していき、尼子家が最もその権力と力を盤石化していった時代が来るのですが・・・歴史は尼子家には微笑まなかったのです。