毛利隆元と赤川元保・後

さてこの隆元急死を陣中で聞いた元就は嘆き悲しみましたが、同時に元保に下関の防備を命じ、尼子攻めに加わる事を許しませんでした。元就は隆元は暗殺されていたと考えており、元保と和智誠春こそがその首謀者だと考えていたからです。

時は流れて永禄十、長年の宿敵尼子氏を降伏させ一段落ついていた元就は四年越しに
隆元の死に関して動くことになります。

まず三月三日、元保に隆元頓死の責任を取らせ切腹を命じました。確たる証拠がなかったためか元保を自害させることには家中から反発はあったようですが、元就は「向こうが警戒しているのだからこちらが先に動かねば家の大事になる」と言って取り合おうとはしませんでした。更に元保の養子・又五郎と元保の弟・元久の住居を襲撃し二人を討ち取ります。そして出雲遠征には従軍を許されていた和智誠春とその弟を問答無用で捕え、厳島神社傍に監禁。二人は脱走して厳島神社に立てこもったので、元就は翌年、兵を向けて厳重に神社を囲った上でこの兄弟を討ち取りました。こうして元就による四年越しの復讐劇は終わりを迎えます。

しかしこの後、元就は元保が隆元に対して和智氏からの誘いを断るよう強く反対していた事を知ります。自らの過ちを悟った元就は輝元と連名で元保の甥に詫びの書状を送ると共に、赤川家の再興を許したのでした。

・・・・どうも息子の死にかこつけ、発言力の強くなりすぎた家臣を粛清したと考えるのは、疑いすぎですかね?

 

本音と建前

毛利家と尼子家の争いは続きますが、永禄三年(1560)十二月、毛利家に、尼子家の当主・尼子晴久が重病であり、もはや十死一生の様態であるとの情報が入りました。既に死去したとの噂もあり、長年晴久に苦しめられた毛利家中では、この事を元就に話せばさぞ上機嫌になるだろうと重い、ある時元就のもとに皆が参集した折にその話を元就に伝えると、元就は突然気色を変えて家臣たちを怒鳴りました。

「晴久が既に死んだというのならもう是非に及ばぬことであるが、晴久も自身が存命のうちに、我々と一戦を遂げ勝負を決しようと考えていたことだろう。私も天文九年以来、晴久と数度の戦いをした時も、遂に旗本での決戦とまでは行かなかった。私はこれを、出雲へ討ち入った時に果たすべき念願としていたのに残念の至である。総じて敵方の弱みを喜ぶのは、弱将とその下の部将たちの風俗である!おのおのは晴久の重病を、我々の吉事のように申される。これは誠に、是非無き心である!」

この言葉に皆は戸惑い、その場は静まり返ったといいます。尼子晴久重病の報に対しての、毛利元就の反応です。まぁ本音と建前は逆にしておけよ、というお話なのでしょうかね。

そう言えば上杉謙信が武田信玄が死んだとき悲しんだともありますが、あっちは戦バカなのでどうだったのか微妙なところではあります。

大杉抜右衛門

毛利家と尼子家の争いの中にある逸話の一つですが、ある時尼子が和睦の使者として大杉という豪傑を使いによこしました。この男、周囲ニ尺もある杉の木を引き抜いたというので大杉抜右衛門などというちょっと聞くとふざけた名前を名乗っていました。大杉を迎えた元就はこういいました。

「お前が剛力だということはよく知っている。そこにある大杉を引き抜いてくれまないだろうか?」

そう言うと庭にある大きな杉を指さします。しかしその杉は木の幹があまりにも大きいので、さすがの大杉も「とても抜けそうにありません。」と断りました。すると元就、

「そうか、毛利家には、その木を抜ける者がゴロゴロしているぞ」

というと側にいた小柄で痩せた男に

「お前、あの杉を抜いてみよ」

と言いました。小柄な男は杉の木の前にいくと、なんといとも簡単に杉の木を抜いてしまったでので尼子の使者達はみんな呆気にとられました。実は前日に元就は杉の木の根を全部切ってしまって、どんなに力の無い者でもすぐ倒せるように細工をしていたのでした。しかし大杉が元就の申し出を受ければ失敗、厳島の合戦以来の元就、一世一代の賭けだったのです。

しかし国に帰った大杉は

「毛利には私以上の力持ちがたくさんいて、とてもかないません」

と報告したといいます。

土竜攻め

さて大内氏を破った毛利元就は尼子家との戦いを開始します。そしてその前哨戦になる戦いの光景がこちらの逸話。

永禄2年2月のこと。この頃石見銀山の支配権を巡り、毛利氏と尼子氏は激しく争っていましいた。そこで元就は次男・吉川元春に、尼子に味方する小笠原長雄の居城・温湯城の攻略を命じました。しかし、信濃守護家の流れを汲むという長雄の篭る要害は、元春の猛攻をも弾き返し、長男隆元・三男隆景そして元就自身までもが温湯に出陣、毛利家総出で攻城に当たる事態に陥りました。

そこで元就が決断したのが、土竜攻めです。穴を掘って城の内側から攻めようという奇襲策です。これにより石見銀山の鉱夫が集められ、連日に渡り坑道が掘り進められました。そしてそんなある日のこと。

「おい、こっちに空洞があるぞ!」

「本当か!?よし、好都合じゃ。そっちを掘れ、掘れ・・・・え?」

その先には、人がいました。なんと城方でも同じ事を企て、坑道を掘っていたのです。予期せぬトンネル開通を祝い、感動のうちに両者は固い握手を交わ・・・す筈もなく、文字通り日の当たらぬ場所で泥仕合開始。

結局毛利軍は城方に撃退され、土竜攻めに失敗。諦めた元就は普通に兵糧攻めを行うことを決意。半年近く経った7月下旬、城主・長雄の降伏により、毛利氏が1万2千余の軍勢を動員した城攻めはごく平凡な結末に終わりました。

珍しく元就の策が見事な空振りに終わった話です。

厳島合戦の論功行賞

さて毛利隆元の死について先に語ってしましましたが、それはまだ先のことですので先に厳島合戦での逸話をひとつ。

厳島合戦が寡兵の毛利勢の大勝利に決し、論功行賞を行っていた時のことです。元就が以前から「家臣にしたい」と言っていた大和伊豆守を殺すことなく生け捕った香川光景は、期待に胸躍らせて元就の前に進みました。

「此度のことは良くやった!私ががかねてから言っていたことを乱戦のさなかに思い出し、あの大和を見事捕虜にしたとは大したものである!

だが、

私はお前ことを頼もしく思い、譜代でもないのに国境の要衝を任していたのだ!陸から攻められたならば一番にお前の城が狙われるだろうが!それを開けっ放しにして厳島に出てくるとは一体どうしたものか!」

褒めてもらえると思っていたら烈火のごとく怒られた光景。しかし光景も黙ってはいない。

「大殿の子供らも全員この決死の戦に出てきているではないですか!今回負けたら御家滅亡は必須!皆死ぬのならば私だって及ばずとも戦い、一緒に死のうと思ったのです!また、勝つのであれば城の一個や二個奪われようとも、取り返せば済むこと!城にいる我が女房子供が殺されようが捕まろうが知ったことじゃありません!大殿や御一族と生死存亡を共にできなくて何が忠義でございましょうか!」

この勢いに押されたのかそれももっともだと思ったのか、元就は光景の格別の忠節を褒め称え、重ねて手柄を褒めたのでした。よかったよかった。

元就の隠居(孫version)

さて息子が己の命を盾に隠居を止めろと訴えてきたので隠居を止めた毛利元就。しかしその四ヶ月後、その頼れる長男が急死。その上ごたごたが始まり毛利家は一気に崩壊寸前まで行ったのを何とか立て直します。

そして一連の出来事に一息ついた後、元就は再び宣言しました。

「もう隠居するから」

この時の元就の考えとしては、亡くなった兄の偉大さを噛みしめている元春や隆景が誠心誠意輝元に仕えることによって、毛利の威厳と体勢の確立を図るためだと言われています。しかし、この言葉に焦った人物がいました。

隆元の息子、元就の孫・輝元です。だって輝元まだ15歳だもん!

「おじいちゃん酷い!お父さんは41年も面倒みてくれてたのに輝元は15年しか面倒を見てくれないなんて狡くない!?僕もちゃんと40年面倒みてよ!」

「ちょっと待ちなさいおじいちゃんいくつまで働けると思ってんの!?」

「おじいちゃんなら大丈夫だもん!銀山あたりに庵構えるっていうなら僕もついて行くかんね!」

「待て待て待て待て荷造りはやめなさい!!」

結局元就の隠居は再びお流れとなり、生涯現役にならざるを得ませんでした。

因みにに70位の元就は頻繁に寝込むようになるほど、身体は老衰を始めていたりすします。

でもこの状態で末っ子ができたんだから大丈夫じゃね?

元就の隠居(息子version)

毛利元就の隠居については以前にも説明しましたが、それは毛利・吉川・小早川の上に立ついわゆる「大御所」として位上げしたというもので、実権は握ったままであったと言われています。しかし大内義長を討った後、元就もいい加減隠居を決めます。この度の隠居は完全に息子に家を譲った、本格的な隠居であったと思われます。まぁ隠居に本格的もなにもありませんが・・・・。

しかしこれに大反対した人物がいます。毛利家の縁の下の力持ち、扇の要、歩くプラチナカードである嫡男の隆元です。領土は広くなってはいるもののその内情は不安定、そんなときに元就に蟄居されてたまるかという気持ちだったのか、隆元は弟達と審議相談し、父親に言い放ちました。

「父上が隠居するなら私も隠居します!」

「ちょっと待って毛利どうする気なの!」

「幸鶴丸(後の輝元)がいます!」

「いやいやいやいやそういう問題じゃないのよ!?」

「駄目ですか!?」

「駄目でしょう常識的に考えなさいよ!!」

この時、隆元は本気でした。

「なら私が死んだら父上は蟄居できませんよね?そうだ、死にます」

「隆元ぉおおおおおおおっ!!」

こうした嫡男・隆元の捨て身の説得により、元就の隠居は防がれました。70近い元就はこれからもまだまだ色んな意味で現役を続けることになったのでした。

・・・・・そしてこの後、隆元は急死してしまうのです。

「隆元ぉおおおおおおおっ!!(涙)」

 

大内義長と大内家の顛末・後

この杉重輔の行動に怒ったのが陶長房の叔父にあたる長門守護代の内藤隆世です。内部対立にうろたえる大内義長の仲介もどこ吹く風で両者はついに山口の町を舞台に市街戦に突入!激戦の末ようやく内藤が勝利を収めた頃には、栄華を極めた大内文化の中心地は焼け野原となってしまいました。盛者必衰とは言え、あんまりです

毛利への恭順姿勢を示していた杉重輔の死は、毛利元就の防長侵略にさらなる口実を与えてしまう結果に終わり、大内家中はますます動揺します。内藤氏においても毛利隆元の妻を姉に持つ内藤隆春が早々と大内を見限り、隆世ら大内派との分裂が発生してしまいます。
ついに長門の西端にまで追い詰められた内藤隆世は大内義長の助命を条件に切腹しましたが、義長の実兄である大友宗麟は大内氏秘蔵の茶器ばかりを所望して弟の命にまるっきり興味を示さなかったので(弟の命より土地と治める権利です)元就は約束をあっさり反故。約束は破る為にあるんだよ!

西国の名門・大内氏はこんなグダグダな顛末で滅亡に追い込まれたのでした。

その後、宗麟と元就の秘密の約束はあっさり元就に反故にされ、大友家と毛利家の争いになったのは皆さんご存知の通りです。

約束は破る為にあるんだよ!

 

大内義長と大内家の顛末・前

さて陶晴賢の死後、大内家もまた滅亡の一途を辿ることになるのですが、今回はその大内家の滅亡への顛末をご紹介していきましょう。

まず大寧寺の変により陶晴賢は主君・大内義隆を自刃させると、晴賢は大友宗麟の弟を「大内義長」として当主に据えました。もちろん、建前だけは主君であり、ただの傀儡当主です。こうして家中の実権を握った陶晴賢ですが、この体制はさほど長くは続きませんでした。

まず前々から仲の悪かった豊前守護代の杉重矩との対立が再び表面化。晴賢は合戦の末に重矩を長門にて滅ぼしましたが、今度は石見で吉見正頼が挙兵しました。これに呼応した毛利元就に散々翻弄されたあげく、安芸厳島でついに敗死したのは今までの記事でも何度も説明してきましたね。

さて晴賢の死後も大内義長は健在だったのですが傀儡当主の彼では家中をまとめきれず、毛利による急激な侵食に対処しきれずにいました。そんな折、杉重輔が陶氏の富田若山城に突如攻め入り、晴賢の嫡男である陶長房らを討ち取ってしまったのです。陶一族を滅ぼすことで父親の敵討ちと毛利との関係修復を同時に実現しようという意図のものでしたが、これは大内義長の関知していない勝手な独自行動でしかありませんでした。

 

陶晴賢の首実検

今回は厳島合戦終了後の、陶晴賢の首実検に関しての逸話です。晴賢の首に関しては以前にもご説明しましたが、その後の扱いについてのお話です。

厳島の合戦も終わり、敗軍の将・陶晴賢の御首は公卿衝重に据えられ、これに諸城の諸組の頭たちが左右に並びただただ畏まっている中。毛利元就、隆元親子は鎧を召して、床几に腰を据えます。その左右に平佐源三郎が太刀を持って控え、その前方に回神藤十郎が弓矢を持って控えていました。

元就の右やや前にて陣貝を膝に乗せるのは、市川式部少輔。市川の右手には太鼓があり、赤川十郎左衛門がバチを手にして畏まり、また床几の右手には、粟屋孫次郎が手拭を扇に乗せて待機。その少し前に秋山隼人が御団を持って膝をついているという、物々しい雰囲気の首実検でした。

元就は床几から立ち、鞭を手にとると、

「貴殿が義隆公に叛逆したのが悪かったのだ。これも天命、恨むなよ」

と言って、

ぺーん、ぺーん、ぺーん、

と三度、陶晴賢の首に向けて鞭を振り下ろしました。その後公卿衝重から首を引きずり落とし、「拾いおけ」とそれを陣僧に拾わせました。たとえ死んでも敵将は敵将であった、と思わせられる話です。

あえてひとつ突っ込むならば、お前も一緒に裏切ったんとちゃうんか、というところでしょうかね。