元就の隠居(孫version)

さて息子が己の命を盾に隠居を止めろと訴えてきたので隠居を止めた毛利元就。しかしその四ヶ月後、その頼れる長男が急死。その上ごたごたが始まり毛利家は一気に崩壊寸前まで行ったのを何とか立て直します。

そして一連の出来事に一息ついた後、元就は再び宣言しました。

「もう隠居するから」

この時の元就の考えとしては、亡くなった兄の偉大さを噛みしめている元春や隆景が誠心誠意輝元に仕えることによって、毛利の威厳と体勢の確立を図るためだと言われています。しかし、この言葉に焦った人物がいました。

隆元の息子、元就の孫・輝元です。だって輝元まだ15歳だもん!

「おじいちゃん酷い!お父さんは41年も面倒みてくれてたのに輝元は15年しか面倒を見てくれないなんて狡くない!?僕もちゃんと40年面倒みてよ!」

「ちょっと待ちなさいおじいちゃんいくつまで働けると思ってんの!?」

「おじいちゃんなら大丈夫だもん!銀山あたりに庵構えるっていうなら僕もついて行くかんね!」

「待て待て待て待て荷造りはやめなさい!!」

結局元就の隠居は再びお流れとなり、生涯現役にならざるを得ませんでした。

因みにに70位の元就は頻繁に寝込むようになるほど、身体は老衰を始めていたりすします。

でもこの状態で末っ子ができたんだから大丈夫じゃね?

毛利家当主の寿命

さて前回でも毛利家の当主らの寿命が短くて・・・という話をしたと思われますが、ここで一挙に出してどれほどのものだったか見比べてみるとしましょう。元就の祖父・豊元からスタートしますね。

豊元 33歳 弘元 40歳 興元 25歳 幸松丸 8歳 元就 74歳 隆元 40歳 輝元 72歳

秀就 56歳 綱広 50歳 吉就 25歳 吉広 35歳 吉元 54歳 宗広 36歳 重就 64歳

治親 38歳 斉房 28歳

・・・・約二名が異彩を放っていますね!

しかしこうして見るとやはり元就は戦国の世には珍しい長生きですし、それ以前は若死にが多いですね。特に甥の幸松丸の8歳は目を引きますね。何でこんな小さな子に当主やらせちゃったんだと思うくらいには。

因みに元就の息子で次男の吉川元春の次男・元氏は75歳。四男の穂井田元清の息子の秀元は72歳、孫の輝元の次男の就隆は77歳と長生きがいる所を見ると、毛利家当主は短命ですが分家にいった人物達には結構長い気な人達が多くいますねっていうとやっぱり呪われてるのか毛利家は・・・?元就も次男で分家みたいなもんだったからな・・・

まあそれはさておき。短命な当主が多い毛利家ですが家臣には長生きの人物がいたようで特にこの

志道広良 91歳 国司元相 100歳 平賀元相 99歳

この三人は特出して長生きのようです。彼らは毛利家家中でも長く奉公した者達です。家臣にも長生きした人達がいるのにどうして当主には若死が多かったのでしょうかね。やっぱり毛利家は呪われてたんじゃ尼子や大内とか

大内義隆と毛利家

さて中国地方の覇者といえば大内家、一時期猛威をふるった尼子家、そして何やかやでこの二つがいなくなってそして誰もいなくなった最後に残った毛利家が有名です。(宇喜多さんちはまた今度)

そんな毛利家ですが、嫡男の毛利隆元を大内家の人質に出してえらい可愛がられたり、その養女を正室に迎えたり、長男だけじゃなく三男までさしだしたりと(次男は返却されました)色々大内家と縁深かったものの、最後には間接的に陶晴賢の謀反に手を貸した毛利家。しかし、謀叛で死んだ大内義隆の扱いは非常に心配りが利いていたようです。

まず隆元が義隆の死を悼み、義隆と義隆に殉じた者を神と崇めるため竜福寺を建て義隆の絵を描かせてその地に飾らせました。次に息子の輝元が天正三年に義隆の二十五回忌法要、天正十一年には三十三回忌法要、慶長五年(関ヶ原の戦いのあった年)に五十回忌の法要を行っています。

なんとそしてその後も律儀に律儀に法要を行った毛利家。元禄十三年に百五十回忌、寛延三年に二百回忌、寛政十二年に二百五十回忌、嘉永三年に三百回忌・・・・明治時代になってからも毛利家による大内義隆追悼の念は変わらず、明治二十二年には古くなった寺を整備し新たに墓標を建て直した程です。

もしかしたら最初は人気取りや周りに毛利こそが大内の後継者である事を知らしめるために始めたかもしれないが、ここまで来るとなかなかできない事です。

皆さんもお世話になった方の法要などは欠かさないようにしましょうね。

 

毛利狐、この世を去る

毛利狐とは大友宗麟の手紙の中にある言葉で、毛利元就を差した言葉です。まぁこの「狐」というのは褒め言葉ではなく、狡賢いというニュアンスの狐ですが・・・。

何はともあれ大友家は毛利家を九州から撤退させることに成功、その後は自領内の統治を図ります。そして毛利方は毛利方で大友家に担ぎ出されて攻撃してきた大内輝弘を打ち破ります。そして此処まで数度にわたって北九州へとちょっかいをかけ続けてきた大友家最大の不安分子でありトラウマ確定の毛利家でしたが、これ以後毛利家が北九州にちょっかいをかける事はなくなります。

この翌年、タイトル通り毛利元就が亡くなった事がその最大の要因です。その後は継いだのは、この時19歳だった毛利輝元。毛利元就の孫であり、先だって亡くなった毛利家長男・毛利隆元の息子です。この後輝元は伯父の小早川隆景の補佐と色々な教育をうけながら毛利家を率いていくのですが、それまでの織田家との友好外交を取り消します。

この当時将軍足利義明により織田信長包囲網と呼ばれる反信長戦線が出来上がっていたので、毛利家もこの流れに乗る形になったのですね。その為これ以後毛利家は九州への出兵は無くなり、大友家は安心して九州の統治を進めていく形になったのです。

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