毛利隆元と赤川元保・後

さてこの隆元急死を陣中で聞いた元就は嘆き悲しみましたが、同時に元保に下関の防備を命じ、尼子攻めに加わる事を許しませんでした。元就は隆元は暗殺されていたと考えており、元保と和智誠春こそがその首謀者だと考えていたからです。

時は流れて永禄十、長年の宿敵尼子氏を降伏させ一段落ついていた元就は四年越しに
隆元の死に関して動くことになります。

まず三月三日、元保に隆元頓死の責任を取らせ切腹を命じました。確たる証拠がなかったためか元保を自害させることには家中から反発はあったようですが、元就は「向こうが警戒しているのだからこちらが先に動かねば家の大事になる」と言って取り合おうとはしませんでした。更に元保の養子・又五郎と元保の弟・元久の住居を襲撃し二人を討ち取ります。そして出雲遠征には従軍を許されていた和智誠春とその弟を問答無用で捕え、厳島神社傍に監禁。二人は脱走して厳島神社に立てこもったので、元就は翌年、兵を向けて厳重に神社を囲った上でこの兄弟を討ち取りました。こうして元就による四年越しの復讐劇は終わりを迎えます。

しかしこの後、元就は元保が隆元に対して和智氏からの誘いを断るよう強く反対していた事を知ります。自らの過ちを悟った元就は輝元と連名で元保の甥に詫びの書状を送ると共に、赤川家の再興を許したのでした。

・・・・どうも息子の死にかこつけ、発言力の強くなりすぎた家臣を粛清したと考えるのは、疑いすぎですかね?

 

毛利隆元と赤川元保・前

さて毛利隆元の急死につきましては、こんな逸話が残っています。

毛利家中に赤川元保という男がいます。生まれ年は伝わっていないのですが、元就が毛利家当主を継ぐ際に出した起請文に署名している事から、おそらく元就と同世代かそれより上だろうと思われます。長らく元就の直臣として仕えていた元保は、隆元が当主となった後は隆元付きとなりました。

毛利家で五奉行制度が始まると、元保は五奉行筆頭となり隆元派として幅を利かせ、
他の重臣で元就派の桂氏や児玉氏と諍いを起こすまでに隆元に入れ込んでいました。そんな家中きっての隆元派だった元保だが、主・隆元とは決していい関係ではなかったようで、隆元は書状で何度も元保について愚痴をこぼしています。

曰く、「赤左(元保)は思案無き者で傲慢な振る舞いが多い」とのこと・・・・。

元保がこの隆元の愚痴を察していたかどうかは分かりませんが、この主従には微妙な温度差があったものと思われます。

そして、永禄六年八月三日のこと。出雲遠征に向かう途中、佐々部の地に滞在していた隆元のところに地元の城主、和智誠春から饗応の誘いがありました。出立を控えた時期に饗応などと元保は強く反対するも、日ごろから元保の言を疎ましく思っていた隆元は元保の意見を聞き入れる事はありませんでした。予定通り和智氏の館で饗応を受け帰路についたその時、隆元が突然苦しみ出します。傍にいた者達は慌てて医者を呼ぶも、介抱虚しく八月四日の早朝、隆元は息を引き取りました。

毛利隆元の急死

さて尼子攻めの最中、毛利家の嫡男である毛利隆元がこの世を去ります。その時の状況について少し解説していきましょう。

永禄6年(1563)、毛利隆元公は大友との和平締結に成功すると、7月10日、本拠地吉田郡山に帰還。翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸公と正室福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、三献のあとお供の衆も召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、公方方からの上意のこと、父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、ご苦労されているのだということを、心静かに仰せられた。

しかしこの時、隆元は久しぶりの妻子との再開なのに、あまり打ち解けてない状況だったといいます。その後、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、佐部という場所で軍勢の集結を待ち、8月5日には出雲に向けて出立するということになりました。そこで悲劇が起きます。

その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。御法名は花渓常栄大居士とされた。

隆元はその親孝行である人物像を、人々に平重盛公以来の名君と讃えられました。その隆元が最期に吉田に帰った時も城に入らないままであったので、どうしてかと尋ねると隆元はこう返しました。

「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。そんな所に例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのはあまりに気ままのように思う。まあ、父上に対する敬意だよ。」

あまりに働きすぎ、親思いしすぎだった毛利隆元の一面がわかる逸話です。

 

元就の隠居(孫version)

さて息子が己の命を盾に隠居を止めろと訴えてきたので隠居を止めた毛利元就。しかしその四ヶ月後、その頼れる長男が急死。その上ごたごたが始まり毛利家は一気に崩壊寸前まで行ったのを何とか立て直します。

そして一連の出来事に一息ついた後、元就は再び宣言しました。

「もう隠居するから」

この時の元就の考えとしては、亡くなった兄の偉大さを噛みしめている元春や隆景が誠心誠意輝元に仕えることによって、毛利の威厳と体勢の確立を図るためだと言われています。しかし、この言葉に焦った人物がいました。

隆元の息子、元就の孫・輝元です。だって輝元まだ15歳だもん!

「おじいちゃん酷い!お父さんは41年も面倒みてくれてたのに輝元は15年しか面倒を見てくれないなんて狡くない!?僕もちゃんと40年面倒みてよ!」

「ちょっと待ちなさいおじいちゃんいくつまで働けると思ってんの!?」

「おじいちゃんなら大丈夫だもん!銀山あたりに庵構えるっていうなら僕もついて行くかんね!」

「待て待て待て待て荷造りはやめなさい!!」

結局元就の隠居は再びお流れとなり、生涯現役にならざるを得ませんでした。

因みにに70位の元就は頻繁に寝込むようになるほど、身体は老衰を始めていたりすします。

でもこの状態で末っ子ができたんだから大丈夫じゃね?

元就の隠居(息子version)

毛利元就の隠居については以前にも説明しましたが、それは毛利・吉川・小早川の上に立ついわゆる「大御所」として位上げしたというもので、実権は握ったままであったと言われています。しかし大内義長を討った後、元就もいい加減隠居を決めます。この度の隠居は完全に息子に家を譲った、本格的な隠居であったと思われます。まぁ隠居に本格的もなにもありませんが・・・・。

しかしこれに大反対した人物がいます。毛利家の縁の下の力持ち、扇の要、歩くプラチナカードである嫡男の隆元です。領土は広くなってはいるもののその内情は不安定、そんなときに元就に蟄居されてたまるかという気持ちだったのか、隆元は弟達と審議相談し、父親に言い放ちました。

「父上が隠居するなら私も隠居します!」

「ちょっと待って毛利どうする気なの!」

「幸鶴丸(後の輝元)がいます!」

「いやいやいやいやそういう問題じゃないのよ!?」

「駄目ですか!?」

「駄目でしょう常識的に考えなさいよ!!」

この時、隆元は本気でした。

「なら私が死んだら父上は蟄居できませんよね?そうだ、死にます」

「隆元ぉおおおおおおおっ!!」

こうした嫡男・隆元の捨て身の説得により、元就の隠居は防がれました。70近い元就はこれからもまだまだ色んな意味で現役を続けることになったのでした。

・・・・・そしてこの後、隆元は急死してしまうのです。

「隆元ぉおおおおおおおっ!!(涙)」

 

息子の手紙を読んで、パパ

さて今回はあのネガティブすぎると巷で評判の(どこの巷だ)毛利隆元の手紙を呼んだ、毛利元就の、つまり父親の反応はどうだったのか?についてです。それについての手紙が残っていますので、ご紹介しましょう。あの手紙魔、平均2,8メートルもの手紙を書く毛利元就の書状であることを念頭に置いて読んでください。

『毛利家文書 七六三』

毛利元就書状

寄越して頂いた隆元の書き置きを日々拝見しております。

何と言えばよいのか、とても言葉では言い表せず(原文:言語道断)、感涙に堪えません。これ程までに禅師を頼られているとは知らず、とても感謝しております。

是非とも御上国下さい。

また、お越しになられた際には隆元の菩提を弔ってやりたいと思います。

詳しくは昇公に申しております。恐惶謹言。

卯月十二日 元就(花押)

『毛利家文書 七六四』

み、短い!(驚愕)

本当に短いのです。まさに言語道断、悲しすぎて筆すら握れない状態だったのか、我が子がこんな思いでいたということを知らなかったという悲しみなのか。厳島合戦とかでも戦に消極的な元就を叱責したり、

「じゃあ二人共死んじゃ困るからパパだけ戦に行くね」

「当主不在で戦とか指揮が上がらん。行く」

と言った隆元がこんな思いだったとは誰が予想したものか。これ以後、今までの勢いが嘘のように毛利家は傾いてしまい、折々で元就は嫡男・隆元の死を悲しんだといいます。

本当に稀有な人だったのでしょう。

 

兄の手紙を読んで、弟(二番目)

さて前にまるで遺書のようなネガティブさを感じさせる手紙を書いた毛利隆元についての逸話を紹介しました際に、弟、小早川隆景の反応があると書きましたのでここでご紹介しましょう。兄の死後「あの手紙」を読んだ、小早川隆景からの書状です。

小早川隆景書状

書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。

今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、私と元春も力の限りを致すつもりでおります。

元就の御心底についてはお察し下さい。

一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。

卯月十一日 隆景 (花押)

あの普段から冷静さを漂わせている小早川隆景でさえ、兄の死後は狼狽えて「毛利家は終わった!」と叫んでいたそうです。まあ隆元が死んで一気に毛利家は傾きましたので(以前の記事参照)、仕方のないことですね。

嫡男の苦悩・後

右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公

足下 タカ元(花押)

出典は毛利家文書の七六一、「毛利隆元自筆書状」から致しました。ことごとく後ろ向きでネガティブな内容でありながらも、「でもこんな風に書いてますがいつもは頑張っています」と書いていて、本当に彼の生存時は毛利家が上手く回っていたことを考えると、そんな風は周囲には見せようとせずに頑張っていたのでしょうか。だからこそここまで思いつめてしまっていたのでしょうか。

父・毛利元就が以前、どこか心配性だ、と書きましたが、息子の隆元は心配性をこじらせていて、誰にも打ち明けられないままだったのかもしれませんね。つくづく途中で亡くなってしまったことが残念な武将であると毛利隆元に関しては思わざるを得ません。

因みにこのまるで遺書のような手紙は、その死後、毛利家に送られて読まれることになります。その際の元就と弟・隆景の反応もありますので、また別の機会にご紹介したいと思います。

嫡男の苦悩・中

一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はおりません。ですから私に才覚器量があったとしても、到底父には敵わない事でしょう。今のように私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや他国一円においては沙汰の限りではありません。

一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません。しかし只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。

一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております。

一、右、私の心の内を申すままとしました。

一、このように申したとて、国家を保つ事は常々油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離

此の理は悉くさとりました

一、天道満ヲカク、

此の理を以ってさとりました。

 

嫡男の苦悩・前

尼子家粛清の件の後、元就はいよいよ陶晴賢との決戦・厳島の戦いが始まります。しかしこの1555年の一年前に、ある武将がある人物に向けて手紙を送っています。その武将とは毛利隆元、毛利元就の嫡男です。

天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の竺雲恵心に送った有名な手紙。その文章を挙げてみましょう。こちら、涙なくては読めない手紙です。長いのでゆっくり、分けながら行きましょう。

「恵心公宛隆元自筆書状」

謹述胸念

一、来世の善所の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに善い行いを積むように致したく思っております。

一、現世については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

一、故に我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。それは至って明白な事であります。またそのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。しかしこれは、偏に父・元就の信心の故と思います。私にはそのような信心がないため、毛利の家運の尽きる時に当たって生まれたのだと思っております。