内田入道玄叙の策・3

さて数日経って降伏すると言った立花城ですが、幾日待とうとも降伏する気配がありません。もしやと思った忠長、急ぎ玄叙を呼び出します。しかし玄叙、あくまで平然と

「おっしゃる通り降伏など真っ赤な嘘。毛利と四国の援軍が来るまで日を稼ぐために偽りの降伏を申し渡しました。どうぞこの首をお持ち下され」

その物言いに島津軍の兵達はいきり立ち、今にも切りかからん勢いで総立ちになりましたが忠長、これを制して

「玄叙、おまはんの勝ちじゃ。その命を持って主を、城を救おうとしたその気概は天晴れである。首はいらぬ、悠々と城に帰るがよい」

そう笑うと忠長は玄叙に新しい武具や刀を渡し、馬まで渡して立花城へ帰らせました。玄叙は忠長に篤く礼を良い、立花城攻めの際には自ら先陣を切って島津軍と戦う事を約束して城へと戻っていきました。立花城でもまた、生きては帰ってこれぬと思っていた玄叙が戻ってきた事に皆喜びました。

さて、忠長は援軍が九州上陸している事を聞くと立花城の包囲を解き、撤退を諸将に命じました。この時宗茂は島津軍に攻勢に出て、見事岩屋の城を取り返すに至りました。そして九州の動乱は佳境に入っていきます。

わが身を盾に城を守ろうとした玄叙も、それを称えた忠長も両方かっこいいですね。こんな逸話は聞いていてとても清々しい気持ちにさせてくれます。今後もこのように、色んな武将の色々な話をご紹介していきたいと思います。

九州

内田入道玄叙の策・2

動き出した島津の兵に、宗茂もまた島津軍の城攻めが開始される事を察知しました。この時宗茂は何を思ったのでしょう。父・紹運のごとく城兵達と共に、討ち死にしても大友家への忠誠を守るつもりだったのでしょうか。

「殿、某にお任せいただきたい」

この時宗茂の側に進み出たのが、内田入道玄叙。あの立花道雪も一目置いていたと言われる智将であり、軍師的存在の将です。玄叙はその策を宗茂に説明すると、翌日、馬に乗って島津軍の陣へと向かいました。

「和議を講ずるために参り申した。ここにある我が主君立花宗茂公の意向をしたためた手紙を見て頂きたい」

半信半疑の忠長はその手紙を受け取り、中を見ました。そこには城を明け渡して降伏をする事。ただそれには準備が色々あるので数日の猶予を頂きたいという事が書かれてありました。立花城の降伏は願っても無い申し出ですが、この手紙をそのまま信じて良いものか・・・。

「ついてはこの玄叙が、降伏の日まで人質として此処に留まる所存にございます」

悩む忠長を決定させたのは、玄叙が人質になるという申し出でした。流石にこれほどの人物を捨て石にはしまい、忠長は宗茂の降伏を受け、数日の猶予を与える事を了承しました。

九州

内田入道玄叙の策・1

さて今回からは岩屋城攻めの少し後、迫りくる島津軍との戦いで活躍した立花家の智将・内田入道玄叙の話を少ししましょう。

さて岩屋城で高橋紹運相手に多大な被害を受けた島津軍は、急いで次の城である立花城に向かいます。何せ時間をかけ過ぎては秀吉の大軍が援軍としてきてしまいます。それだけは何とか避けたい島津軍、大軍を持って立花城を取り囲みます。

大軍に城を囲まれた立花城では軍議が荒れていました。島津の大軍相手には開城も止むなしとする者達も多かったのですが、実父・高橋紹運を岩屋城で捨て身の玉砕で失っていた立花宗茂は徹底抗戦を主張。逃げたい者は逃げるも止むなし、たった一人になってでも戦い続ける事を決定した宗茂に、立花の将らも覚悟を決めました。

さて立花城では徹底抗戦が決定しましたが、島津軍を率いていた島津忠長はこれに頭を悩ませます。立花城をそのまま攻めてしまえば、岩屋城よりも多大な犠牲と時間を労するでしょう。それでは困る。何とか立花城を降伏させたい忠長は城下の焼き払いなどで城方の士気を下げようとしますが、宗茂もまたその度に兵を出すも打って出てくる様子もない。

その内、中国四国から大友家への援軍が出されたと聞いた忠長は立花城攻めを開始する事にしました。

九州

握り飯と紹運・宗茂親子の話

えー、聊か今回は意味不明なタイトルかと思いますが、お付き合い願います。

立花鑑載討伐の際の、食事時の逸話です。

この時夜討ちの後で(数説あり)兵士達は食欲がなく、弁当の握り飯を食べられたのはほんの数名でした。食べた者達も戻したり喉に詰まらせたりと散々でしたが、紹運は

「男たるものこれから死ぬかもしれない時に飯ぐらい食えないでどうする!」

と家臣達を励ましながら率先して握り飯を五、六個素早く食べたと言われています。それお腹空いてただけとちゃうんかと

さてこの良く分からない逸話ですが、実は宗茂にも似たような逸話があります。

対して此方は秀吉による朝鮮出兵時の話です。この時も兵士達の疲れや疲労はピークで食欲がなく、また無理をして食べた家臣達が宗茂の前で食べた物をリバースしてしまいました。でも宗茂もまた紹運の血をひく息子、それを気に掛けず凄い勢いで握り飯を食べたそうです。だから腹減ってただけとちゃうんかと

こんな所でも何だか親子なんだなぁと思わせてくれる紹運と宗茂。因みに宗茂の義父・道雪も食のこだわりがあり「男なら鮎は頭から食すもの!」みたいな所があります。戦国時代はご飯を食べるのにも一苦労という話ですね!多分違う

生き残った者の辛さ・3

忠長に丁重にも馬と供を貰った大膳は武時立花山城へ戻る事が出来ました。そして紹運の息子である立花宗茂に預かった手紙と、既に岩屋城が落城した事、紹運以下、壮絶な討死を遂げた事。そして島津忠長へ宛てた手紙とを渡し、自らがどのようにして戻ってきたかを説明しました。そして宗茂に告げたのが

「では、少々お暇乞いをさせて頂き抱く思います」

「ならぬ。死ぬ気であろう」

大膳の心を読んだ宗茂はこれを止めて曰く、

「今そなたが死ぬ事は犬死に等しく、亡き紹運殿も喜ばれまい。どうかこれからは余に仕え、余の馬前で死んでくれ。」

その後大膳は立花家に仕えて宗茂のの兵学師範となりましたが、後に剃髪して紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうです。

死んでいった者達よりも、場合によっては生き残った者達の方が辛い事もあるようです。そう言えば赤穂浪士の討ち入りの話でも、討ち入りした者達は幕府にその功績を誉め称えられて切腹となりましたが(斬首は罪人へ行うもので、切腹は武士の誉れを認める事なのです)、その時生き残った者達は逆に何故死ななかったのかと悩み、周囲からは臆病者と謗りを受けたという話もありますね。

色々と考えさせられるお話ですね。

親子の交わした最後の会話

また、降伏勧告などを行ったのは島津家だけではなく、豊臣家の名軍師・お久しぶりの黒田官兵衛や、息子の立花宗茂からも、岩屋城は地の利が悪いので守りにくいので宝満山城で籠城戦を行ってはどうかいう手紙が届いています。

しかし紹運はそれを承諾せず、その使者を丁重に持て成して返事を持たせ、息子の元へ返しました。

「宗茂の言う所は至極もっともであるだろう。だが地の利は人の和に敵わずとも言う。いくら堅固な城に籠っても、人の心が一つに纏まらねば意味をなさぬ。我が家は今や、滅びの時を迎えているが、これは世の流れ。滅びの時が来たのならば如何なる堅固な城に籠ったとしてもこれからは逃げられはしないだろう。それならば慣れ親しんだ城を枕として、武士の本懐を遂げて死ぬ事こそ本意である。この岩屋の城に籠って戦えば十日ほどは島津を足止めして、敵の三千ほどは討ち取って見せよう。さすれば次に立花山城に攻め入ったとしても更に日を稼ぎ、秀吉公の援軍も到着して宗茂は生きながらえる事が出来よう。我が命が此処に果てようとも宗茂さえ無事であるならば今は無き道雪様に対しても面目が立とうというものである。」

これが、高橋紹運、立花宗茂の最後の会話となりました。

九州

迫りくる島津軍

さて、秀吉からの大友家との和睦要請を蹴っ飛ばした島津家。このままうかうかはしていられません。何故なら大友家が豊臣家(秀吉)に和睦の仲介を頼んだという事は、この頼みに乗っかった形で九州に進出してくる事でしょう。大友家の援軍要請は、秀吉に九州征伐の大義名分を与えてしまったようなものです。まぁそのままぼんやりしていたら島津家に滅ぼされただろうと予測されますので、大友宗麟の行動は今の大友家にとって最善策だったのですが・・・。

豊臣家が九州に介入してくる前に島津家は急いで北上の準備を始めます。この時島津家としては、何としてでも秀吉が来る前に大友を落として九州の覇権を秀吉の者にしないようにしたかったのかもしれません。

さて、大友家の名将・立花道雪の死をきっかけとして島津家は筑前侵攻を開始します。大友家の本拠地豊後を守る最後の壁がこの筑前にありました。

かの道雪の居城であった立花山城と、それを守る立花宗茂

その弟の高橋統増の守る宝満城

そして両名の父であり、名将の高橋紹運が籠る岩屋城です。

どの城も堅城で強敵がいますが、彼らをそのままにしておいては豊後侵攻の際の大きな障害となるでしょう。この時、義久は従兄弟の島津忠長を総大将に、まずは紹運の守る岩屋城を責め始めます。

九州

立花宗茂の婿養子入り3

さて養子に迎えられた立花宗茂、まだ幼い子供でしたが義父となった道雪は宗茂を厳しく育て上げます。それもその筈、無理を言って貰った養子なだけに甘やかして育て上げては紹運の顔に泥を塗るような事にもなりかねません。その教育は食事時にまで及び、鮎を身をむしりながら食べていたら「男なら鮎は頭から丸かじりにせんかい!」と怒られるほどでした。確かに鮎は丸かじりにして食べた方が無駄なくて美味しいですよね(多分ここじゃないだろうけど)

その厳しい教育は家臣達にも浸透しており、家臣の小野鎮幸は宗茂と栗山へいき、足に毬が刺さった宗茂が「痛いから棘を抜いてくれ」と足を差しだすと、それを無言で更に深く刺し込んだそうです。男ならば栗の毬ごときでゴタゴタ言うな!という教育方針なのでしょうか?ちょっとした虐待にも見える

ですがこうして厳しい教育を受けた宗茂は西国一と呼ばれるほどの名将になっていくのです。

この宗茂ですが、実は初陣を辞退して一年伸ばしています。「今の力では討死してしまうから」との言葉に家臣達は「若君は臆病なのか」とうろたえましたが、言葉通り一年後の初陣で大手柄を上げました。その戦手腕を道雪に見込まれたのかもしれません。

身の程を知る、という言葉は悪い言葉のようでいて、実はとても難しく重要な事なのですね。

 

立花宗茂の婿養子入り2

「宗茂よ、これは父よりの最後の手向けである。受け取るがよい。」

そう言って紹運が取りだしたのは、自身の愛刀・備前長光でした。宗茂がそれを受け取ると共に、紹運は息子に父として最後の薫陶を授けます。

「よいか宗茂よ、これよりお前は道雪様の息子になる。もし私と道雪様が争うような事あれば、その時お前は自ら先陣を願い出てその刀で私を討ち取りに来るのだ。」

「そしてその際にもしお前が古い親子の情に流されて私を討ち取れぬような事あれば、道雪様の元へ戻るようなみっともない真似は許さぬ。その場で、その刀で自らの腹を切るように。」

「そしてお前が何か不覚を取って道雪様より離縁される事があったとしてもこの城へ戻る事は許さぬ。その場合も潔く腹を切って果てよ。」

織田信長の妻・帰蝶姫より輿入れの際に短刀を父・道三より賜って「夫がうつけならば刺し殺して戻ってこい」と言われましたが、こちらは中々にスパルタな教えですね。しかし父の教えの意味を悟り、宗茂はその刀を受け取ります。そしてそれを見届け、紹運は最後にこう告げました。

「よし。それでは最後の教えだ。もし私がお前より早く死ぬ事あればその刀を形見と思い、我が教えに従って生きるように」

こうして親子は、最後の別れをしたのであります。

立花宗茂の婿養子入り1

さて当時高橋弥七郎と名乗っていた高橋紹運の息子・後の立花宗茂ですがその養子になった経緯も簡単なものではなかったのです。

高橋紹運と立花道雪、彼らは親子ほど年が離れていながらも熱い友情で結ばれており、深い交流がありました。そしてある日、道雪は紹運の元を訪れます。何の用であるのかと首をかしげる紹運に、道雪は宗茂を養子にくれないかと切り出します。これには紹運もびっくり。

紹運には息子が二人おり、この内の嫡男が宗茂です。つまり宗茂は紹運にとっても優秀で大切な跡取り息子です。如何に相手が道雪でその頼みとあっても、簡単にはいそうですかと渡す訳にはいきません。それだけは勘弁してくれと何度も断るも、道雪もまた必死に紹運に頼み込みました。道雪もまた、大友家を守るために立花家を断絶する訳にもいかず、その後継ぎとして宗茂に養子に来て欲しかったのでしょう。

この時道雪には娘・誾千代一人しか子がおらず、娘にするには惜しい器量といいながらも、やはり自分亡き後娘が一人で家を守るのは心配だったのかもしれません。道雪の頼みを最初こそ拒んでいた紹運ですが、その大友家への忠節を感じ取ったのか宗茂を養子に出す事を了承しました。

そして宗茂の養子入りの前に最後の宴が開かれます。そして紹運は息子を呼びました。