井上一派粛清

毛利家の渦中に、井上元兼という人物がいました。彼ら井上一族は元は毛利家と対立していましたが、元就の父の弘元により家臣に組み込まれ、それ以後は毛利家によく尽くして働いてきました。元兼も優秀な人物であり、特にその才覚を主に財政面において活躍したと言われています。また、元就の家督相続を井上就在・井上元盛・井上元貞・井上元吉ら他の井上一族とともに支持するなど、元就の補佐を努めて大いに功績をあげていました。

しかし財政面への明るさから横領を始め、家中への強い発言力から専横を始めるようになってしまいます。そして元就もまた、決断を下しました。

1550年7月13日に、井上元兼とその一族は殺害され、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させられました。これは二度とこのようなことが起きないために、毛利家内での統率力を強化しました。

しかしこの際には、井上一族を全てが殺されたわけではありません。前回にの井上光俊のように忠義を尽くしていた者や、井上一族の長老である光兼など、恩義のある者達は助命しています。この際に処断されたのは、主だった30名のみのようです。

因みに元就自身がこの誅伐に関して、「井上には幼いころに所領を横取りされた」などと手紙に残っているので、積もり積もっていた恨みもここで噴出したものと見て間違いないでしょう。しかしその一方で、家臣を処断することに強い苦悩も感じていたようです。