小早川家と徳寿丸

天門13年。1544年、毛利元就は正室・妙玖婦人との間に産まれた三男の徳寿丸を小早川家へ養子に出すことを決めました。

小早川家には元就の姪(早世した兄である毛利興元の娘)が嫁いでいたのですが、前当主だった小早川興景は吉田郡山城の戦いで毛利家への援軍に駆けつけるなど元就と親密な関係を築いていました。

しかし天文10年に興景は子供もいないまま早世してしまいました。困り果てた小早川家の家臣団から元就は徳寿丸を養子に出して欲しいと要望を受けましたが、この時は徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っているようです。一説にはこの時断ったのは妻の妙玖婦人がまだ幼い徳寿丸を手放したくなかったためとも言われていますが、真相は定かではありません。

しかし困ったのは小早川家の方です。この頃の安芸は戦が頻繁に起こっており、小早川家は当主不在のまま何度か戦に駆り出されていました。困りはてた小早川家家臣団は今度は大内義隆に元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこみました。元就も義隆の頼みを断ることは出来なかったのか、はたまた別の意図が生まれていたのか、全当主・小早川興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行き、小早川家はなんとか存続することになったのです。