新宮党粛清

尼子宗家と新宮党は日に日に溝が深くなっていきました。そして新宮党の国久の娘であり、当主の晴久の正室が亡くなってしまった事で両者の溝は決定的になりました。

天文二十三年十一月一日。定例評議の為に国久、国久の嫡男の誠久、そしてその息子である敬久ら新宮党も登城します。この時を待っていたとばかりに晴久は配下の者達と新宮党を襲い、その一族を殺害しました。後の世で言われる、晴久による新宮党粛清です。新宮党の者達はことごとく殺害されましたが、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺で僧となりました。

一族内で争うという外聞の悪い事態こそ起こしたものの、晴久の新宮党粛清により尼子家内の権力は尼子宗家に集中化していきます。時として権力が分裂化していると家がまとまらなくなり、有事の際に正しい判断ができずに滅んでいくのは織田家と戦った浅井家などが良い例なのかもしれません。

この後すぐ尼子家が衰退していくならばこの新宮党粛清は間違った行為といわれるでしょうが、事実この後も尼子宗家は権力を盛り返し、毛利家との戦にも勝利しています。尼子内の権力を一本化した晴久の行動は正しいものであったという証明でしょう。

余談ですが、この時唯一生き残った子供こそ、後の世で山中鹿之助によって世に出される尼子勝久なのです。